ヘブライ語、折れそうになりながら

ヘブライ語
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 あれからヘブライ語の勉強が一向にはかどらず、やったりやらなかったりを繰り返している不真面目なわれらが星どん。ま、わたしは人間ですからね。感情が常に揺れ動いているわけですよ。などと言い訳をしても、学習状況が進展していくわけでもない。勉強は止まったままで、前回からろくに進めていないのだ。
 当たり前だけれど、特に語学というものは毎日やらないと上達していかないものなのだ。毎日やる。それもコンスタントに、着実に積み上げていく。そうすることによって、ものになっていくし、できるようになっていく。が、それこそが一番難しい。毎日やるって、続けるって一番難しいじゃないですか。
 何か今日ヘブライ語を2時間やるんだ、って意気込んだら急に気が重くなってしまって、何も手つかずのまま時間ばかりが過ぎていったんだ。やらなければならない、やらなければならないのは分かっている。けれど、自分の中の何かがそれをやることを、手をつけて始めることを拒んでいる。要するに、2時間もヘブライ語をやりたくなかったんだろうなぁ。1時間でさえもきついのに、それを2倍もやろうなんていうことだからなぁ。
 も、物事がうまく進んでいかない。こういう時どうするかと言えば、神様にお祈りをするのが一番、かと思いきや、瞑想を始めたのです。瞑想。目をつぶって自分がしがみついているものを俯瞰的に眺める。そして、手放していく。
 瞑想をして気付いたこと。それはヘブライ語をやりたくないのならやらなくてもいいということ。やらなかったところで命にかかわることではないし、死にはしない。いわばオプションであって、やるもやらないも自由なのだ。よりパワーアップしていく上ではヘブライ語をやった方がいいのはたしかだけれど、別にやらなくたっていいのだ。やりたくないのならやらなければいい。これは生活の糧を稼ぐための仕事でも何でもないんだし、義務でも何でもない。ただ、イエスさまに近付くためにやったほうがベターなことでしかない。つまり、自由なんだな。やるもやらないもわたし自身に任せられていて、委ねられていることであって自由なんだ。
 そのことに気付けたらとても身軽になった。瞑想をする前まではやらなければ、何が何でもやらねばとがんじがらめになっていたのだけれど、瞑想をしていったらこれこそが執着だということに気付けた。
 やってもやらなくてもどちらでもいい。続けるのもやめるのも自由。すべてはわたし次第。じゃあ、どうする? どうしたいの、わたし?
 ここまで自問自答してみてやっぱりヘブライ語、やりたいなって思った。イエスさまの話された言葉の親戚で、イエスさまはヘブライ語の旧約聖書を読まれていた。イエスさまに近付く。たしかに道は険しい。英語とかドイツ語をやるよりもはるかにハードルは高くて、牧師とか神父などの聖職者を目指す人であっても挫折したり、しそうになるというヘブライ語。でも、ハードルは高い方が、山は高い方が燃えるよね? 急にテンションが上がってきた。一筋縄でいかないからこそ、それをクリアーした時の喜びというのは格別なんだ。最初から山が低かったら頂上にたどり着いても大して嬉しくない。山が高ければ高いほどそれを制覇した時の感動や興奮は比例するかのように大きくなるものなのだ。
 でも、最初から山頂だけを見て、頂上のことだけを考えて登るというのはきつい。きっと折れることだろう。まだ山頂まであんなにある。全然たどり着かないと途方に暮れさえするかもしれない。だから、そうならないためには今いるところをしっかりと踏み固めていくんだ。一歩一歩、時には山頂をも見上げるけれど、基本、近場を見るんだ。見ていくんだ。5メートル先、10メートル先を見て、一つずつ小さな目標を達成していく。そうしてスモールステップで小目標を一個ずつ達成していけば、いつかは山のてっぺんにたどり着く。いや、山頂にまではそう簡単に到達できなくても、着実に一歩ずつ、確実にゴールへと近付いていける。
 というかそもそも、ヘブライ語の勉強で折れそうになるというのは実に進歩的な悩みなのだ。なぜなら、まずヘブライ語にチャレンジさえしていなかったら、こうした悩みにすら到達できなかったのだから。悩むことができるということ。それは悩んでいる時には苦しいかもしれないけれど、すごく幸せなことだったりする。ヘブライ語にチャレンジした。チャレンジしたからこそ、うまく進めないとか、ものにならないとか、うまくいかないなどと悩める。いわば高級な悩み、ステップアップしているがゆえの悩みと言える。これから先もヘブライ語をやっていけば、進むにつれてどんどん難しくなっていってさらなる悩みが発生してくることだろう。でも、それはすごく幸せなことであって、悩めるというのは画期的なことであり、そこまで来ているからこそその段階において悩むことができるのだ。
 逆に一番悩まない方法は何かと言えば、何も挑戦しないことだ。挑戦しなければ失敗することもないし、うまくいかないと悩むこともない。でも、それはつまらないじゃないか。もちろん、無謀すぎる明らかに計画性のないただ失敗するだけのチャレンジは慎まなければならない。自分が受ける損害(経済的損害とか身体的損害など)はきちんと前もってある程度予想していなければならない。けれど、しっかりと計画を立ててまぁいけるんじゃないか。やってみようと思ったチャレンジについてはしっかりと挑戦していきたいものだとわたしは思うのだ。
 そうだな。もっとヘブライ語を勉強していった先の未来の自分の姿をイメージしてみようか。テキストを学習し終えて、スラスラとヘブライ語の旧約聖書を読みこなしているわたし。単語だって豊富に覚えていて、それはそれは賢くなっているわたし。そして、ヘブライ語ができるようになった先には、他の外国語の学習も視野に入ってくる。そこには、何ヶ国語も自由自在に操っているわたしがいて、それはそれは幸せそうに知的な活動を楽しんでいる。
 イエスさま、ヘブライ語頑張りますよ。あなたが生活されて生きておられた中東の言葉をマスターしますよ。そうしてあなたにどこまでも近付いていきたい。
 最終目標はどこまでも志高く、ヘブライ語の旧約聖書を通読すること。とにかく旧約聖書を原典で読めるようになりたい。そのためのヘブライ語の学びなのです。
 やる気が折れかかっていたけれど、また持ち直せそうだ。折れそうになっては持ち直し、また折れそうになってはまた持ち直す。ヘブライ語、やってもやらなくても、続けるのもやめるのも自由。じゃあ、わたしはその上でどうしたいのか、どうしていきたいのか? その時、その時、自分自身に問いかけながら進むかどうか、どの方向に進むか決めていく。休んだっていい。何もシャカリキに毎日やらなくたっていい。でも、やりたいんだったら、やろうと思うのだったらやってみたらいいんじゃないの。それくらいの気持ちでいる。もしかしたらヘブライ語以上にもっとやりたいことが出てきて、そっちの方に舵を切るのかもしれない。そうなったらそうなったでまたそれも一考。別にそれがいけないわけじゃない。だから、胸を張ってそうなったらそうなったでやっていくし、やっていきたい。
 少なくとも今、わたしはヘブライ語を学びたい。学んでいきたい。だから、あきらめずに折れそうになってもぼちぼちやっていくんだ。ヘブライ語、どこまでものになって上達できるかな? ワクワクしてきた。継続は力なりだと信じてコツコツやっていきたい。

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