母の洗礼式まであと3日

キリスト教エッセイ
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 早い。とても早い。まだまだ先だと思っていたクリスマスがもう迫ってきている。12月25日まであと3日。皆さんいかがお過ごしでしょうか?
 さてさて、今のところ特にこれといったトラブルもなくわたしたち親子は過ごしておりますよ。
 明日やること。いや、今日やってもいいんだけど、ほぼ一年ぶりのスーツだからとりあえず着てみる。それで礼拝に行く格好のフル装備(?)をしてみて問題がないか事前に確認しておくつもりなんだ。何だか気持ちが高鳴ってまいりましたよ。自分の洗礼式でもないのに、まるで自分が受洗するかのような緊張感。
 で、最近の母の言行ということで「嬉しい。洗礼を受けられるのが嬉しい」って申しております。そして「やっとスタートラインに立てる」とも。
 母とキリスト教の関係について少しふれると、母は中高とキリスト教系の学校へ行っていたんだ。だから、母のキリスト教との出会いはもうかれこれ半世紀も前のこと。50年って口で言ってしまうと一言だけれど、長い。本当長い。そしてこの50年の間にはいろいろなことがあった。あまり詳細に書くことは本人が許可しないと思うので(笑)、そういった個人的なことは書けないけれど、それでもいろいろなことがあった。わたしは今39歳だから母とはもう40年近く一緒にいることになる。このわたしが知っている40年あまりを振り返ってみてもいろいろなことがあった。それはまるでジェットコースターのようで、笑いあり、涙あり、怒りあり、ハチャメチャあり、感動ありの大長編と言っていい。そして、今年のクリスマスに受洗。
 わたしがキリスト教に導かれたのもそれは神様の業なのだけれど、それでも母がキリスト教系の学校へ行っていたからという理由が大きい。母がミッションスクールへ行っていなかったら今頃わたしは教会生活などしていなかっただろうし、キリスト教との出会いすらなかっただろうと思う。すべてが絶妙に複雑に絡まり合って、今がある。そんな感じなのだ。だから、母には感謝している。母がキリスト教的な精神を持っていなかったらきっと教会へ行こうなんてことにはならなかったし、母あってこそわたしはキリスト教と出会えたのだ。母を通してわたしは出会ったのだから。でも、それすらも神様のお導き、だとしたら神様って本当何とも言えない業をなさるお方なんだなって思う。
 教会の牧師夫人が母の受洗についてこんなことをわたしに言ってくれた。その言葉がとても印象的だったんだけれど、それは「蒔かれた種が時間をかけてようやく実を結んだんですね。それに星さんの方が先に洗礼をお受けになられたというのも本当に不思議ですね。神様のなさる業は素晴らしいですね」。そうなのだ。何て言うか一時期わたしは無信仰的になっていて、むしろ母のほうが先に受洗するものだとばかり思っていた。けれど、母は受洗しなかった。まだその時が来ていなかったということだったんだろうけれど、そうこうしているうちにわたしの方が先に受洗することになったのだ。順番とか、どちらが先とか、そういったことは別にこの際あまり問いただしたりこだわる必要はない。けれど、その先に受けてもおかしくない人が後になる、というのが神様のなさる業の面白いところだと思うのだ。わたしがキリスト教と本当の意味で出会った、つまり教会へ行き始めたのはもう20代も終わろうとしている頃のことであって、母と比べたらわたしの方が出会ってから時間が経っていない。本当、こういうところが面白い。面白いなんて言ってしまっていいのか分からないけれど面白い。
 わたしが母のことで不安だったのは、母が洗礼を受けていなかったこと。つまり、もしかしたら母は死後天国へ入れないんじゃないかっていう一抹の不安だった。でも、もうこれからはその不安、心配はなくなる。なくなって、もう神様のものとされているのだからと心安らかにいることができる。どんと構えていることができる。もちろん、洗礼が天国へ入るための絶対条件だとわたし自身主張するつもりはないし、受けていない人が救われるかどうかという問題について明確に述べたいわけでもない。ただ、確実なのは洗礼を受けた人は天国が確約されるということだ。受けていない人がどうなるか、というのは神様にお委ねするしかないし、まぁ神様はきっと悪いようにはなさらないと思うから、何が何でも洗礼を受けなければダメなんだなどとは言えない。でも、もう洗礼を受けたら安心。そこでもう決着が着いているのだ。
 と言いつつもここでは洗礼を受けても天国へ入れないのではないか、みたいな疑いについてはあえてふれないようにしておきたい。何も都合が悪いのではなくて、そうだったらそうだったでもう仕方がないからだ。イスラム教でなければ救われないとか、仏教的な信仰を持たなければ救われないとか、いろいろ信念のある人はいるとは思う。でも、そうなったら(別の宗教の教えが正しくて真実であって、その通りになったとしたら)もうお手上げだ。なるように大きな力なり、その時の成り行き、向かう方向に委ねるしかない。仕方がないと諦めて、けれどキリスト教を信じたことは絶対に後悔しないし、したくない。。やれることはやったんだから仕方がないじゃないのって思うんだ。
 これからは母も聖餐式の聖餐に与ることができる。一緒に同じウエハースとぶどうジュースを食することができるんだ。そして、母もわたしも「キリスト教徒です」とか「クリスチャンです」と何の気兼ねもなく言えるようになる。母がクリスチャン、ってまだ何だか夢の話のようで実感がわいてこないな。母も3日後にはクリスチャンになるのか。不思議な感じというか、まだならないようなそんな感じがしているんだ。でも、なる。母はキリスト教徒に、クリスチャンになるんだ。それも正真正銘のクリスチャンに。社会的にもキリスト教徒になる。2022年クリスマスに受洗しました、っていうことになるんだ。うーん、まだ実感がわかないな。まだこれからも母は聖餐に与れないままのような、まだそんな状態でこれからもい続けていくような、そんな感じがする。
 25日、どんな洗礼式になるんだろう。とまぁ、ともかくあと3日だけれど、調子が悪くなることはやらないようにして、調子の良くなるヨガでも元気にやって、体にいいものを食べることにしようと思う。最後の詰めの段階ね、詰め。というわけで23、24日はパソコンを控えることにしようかな。万全の態勢で式に臨むためにね。って本人以上に張り切っているのかも(笑)。おいおい、お前が受けるんじゃないだろ。てな冗談はこれくらいにして、25日が本当楽しみ。精神保健福祉士のWさんもはるばる駆けつけてくださる。きっといい式になる。いいクリスマスになる。ラストスパート、などと言いたくなったけれど、「ありのままでいいんですよ」と教会のある方が母に言ってくださっていたようにありのままで、でも気持ちを整えて当日までの時間を過ごしていきたい。
 祖父も頑張っている。精一杯命をつないでくれている。準備万端、あとは当日を迎えるのみ。ってまだスーツ、服装の予行演習してないけどね。行くぞ、母とわたし。来たれ25日、クリスマス。

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