クリームパンと神の摂理

キリスト教エッセイ
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 以前わたしはこのブログに、「意味のない死はない」といったことを書いたかと思う。それから、ああでもない、こうでもないと考えていたわけではないのだけれど、今ふとそのことについて書きたくなったので書きたい。
 わたしたち(特にクリスチャン)はすべてものに意味があると思っている。ものに限らず出来事についてもそうである。すべての存在するもの、すべての出来事。これらには意味が必ずあるのである。なぜなら、神様がこの世界を統べ治められているのだから。神様が統治されているこの世界に偶然などはなく、すべてが何らかの神様の思いなしがあって存在し、出来事も起こる。こうわたしたちは信じている。だから、偶然はない。すべては必然なのである。
 もしも人間に自由意志があり、人間にいくらかの裁量があるとしたら、言い換えれば自由があるとしたら、神様にもそれを侵すことができなくなる。これは難しい話になるのだけれど、そうなると神様にもコントロールできないことがあるのだということになってしまう。人間の自由と神の自由がぶつかるところが出てきてしまうのである。
 たとえば、人間Aがあんパンを食べたいと思ったとしよう。しかし、神様は人間Aにあんパンではなく、ジャムパンを食べさせたいと思った。この場合、果たしてどうなるのか。
 手っ取り早い方法としては、神様が人間Aの心を操作してジャムパンを食べるようにしてしまえばいいのだ。でも、そうすると人間Aの自由はなくなってしまう。この考え方で行くのであれば、人間に自由意志はないのだから最初にあんパンを食べたいと思ったこと自体も神様の御意志なのである。人間は自分で自由に判断して選択しているように思い込んでいるが、実は神様の操り人形でしかなかったのだということである。だから、この場合、人間は何一つ自分の意志では行動できていないことになる。(←自由意志否定論)
 一方、神様が人間にジャムパンを食べてほしいとかそんなことは関係なく、人間が純粋に自分の意志であんパンを食べることを選択できる場合には、自由意志があると言えるのである。(←自由意志肯定論)
 また、これら二つの中間の立場として、半々くらいの割合で人間が自由意志を行使できる場合というものがあってもいいだろう。
 何かで以前読んだ覚えがあるのだが、聖書にこう書いてあることから、わたしたちは指一本ですら神様のお許しがなければ動かすことができないらしい。

 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)

 ということは、東日本大震災の津波の被害で亡くなった人たちも神様がそれをお許しになられたのだから、命を奪われたのだというある意味、破壊的な結論へと到達せざるをえなくなる。そう考えていくと、東日本に限らず、人間が死ぬ時というのは父なる神のお許しがあったからだということになる。
 つまり、突き詰めていくと、人間に自由などはなく、摂理を強調することになり、さらに進んでいくとすべてが神の御計画だということになり、天地が創造される前からすべてが神様によって決定されているのだということになる。天地が創造される前から、すべてが決められていた。どんな出来事が起こるか。誰が何をするか。そして、どうなっていくか。となれば、神様が天地の永遠の時間の様子をまるで絵巻物のようにすべて御覧になられているだけだということになるのだろうか。
 だから、わたしたちが世界を変えようとしても、それはすべて不可能なことなのである。と言うよりはそれすらもすべて神様の御計画の中に掌握されている。どんなにわたしたちがあがいたとしても、その自分であがいているようにさえ思っているあがきもすべては神様に操られているだけのことであって、何ら自律していない。つまり、御心から逃れることができないのである。
 いや、それはおかしいんじゃないかと思われた方もいることだろう。わたしたちには自由意志があるし、自由もあるし、神様が支配して統べ治められていることは認めるけれども、それはわたしたちの自由を尊重しながらのことであって、決して専制君主のようにではない。
 では、人間には自由があると言いたいわけだ。ということは神にコントロールできない自由にならない領域が存在してしまうことにならないか。そうなると先にあげた聖句が成り立たなくなるじゃないか。人間がどこまでも自由で、神もどこまでも自由なんていう両立は論理的に不可能なことだと思う。自由と自由は必ずぶつかる。だとしたら、人間に自由意志がなくて、自由ももともとないとする方がスッキリするんじゃないか? あなたは神の摂理や御計画を否定するつもりなのか?
 なかなか激しい議論の応酬である。うむ、難しい。
 もう数年前になるだろうか。教会の聖書研究会で「神の摂理と人間の自由は両立するのですか?」とそのことが分からなかったので牧師とそこに来ていた教会員の皆に質問してみた。牧師は曖昧なことを言って直接明快に答えようとはしなかった。が、信徒の一人は「両立する。」と何やらよく分からない理屈を持ち出して主張したのだった。わたしにはさっぱり分からなかった。理解できなかったことを覚えている。
 牧師が変わって、その牧師にも質問してみた。するとこう言う。「論理的には両立しない。けれど、両立する。それは神秘の領域に属すると思う。」
 もはや神秘の領域に逃げ込む(語弊があるかもしれない)しかないのか、と納得したような一方で肩透かしを食らったようなそんな気分になったのだった。
 わたしはどうやら際どいところをつついているらしいのだ。
 人間の自由を認める。そうすると神の摂理が損なわれる。
 神の摂理を認める。そうすると人間の自由が損なわれる。
 うむ、きわどい。神があらかじめ摂理でわたしがクリームパンを食べることを決めている状況でわたしに自由などというものがあると言えるのだろうか。そうなれば、わたしにはもはや選択の余地はないことになり、クリームパンを食べるしかないのだ。本来自由というものはジャムパンを食べる自由も、あんパンを食べる自由も、クリームパンを食べる自由もある時に初めて成立するものであって、最初からクリームパン一択しかない時には自由があるとは言えないのである。わたしが自由を行使しながら、かつそれが神の摂理のうちにある。そんなことが可能なわけがない。
 そういうわけで人間には自由意志がないという方向に傾きかけているわたしなのであった。
 だから、人間の死には意味がある。深い意味がある。それが神様がその人の死をお許しになった理由である。が、それはわたしたちには明らかにされない。だから、最後の審判でイエスさまが雲に乗って裁くために来られる時にイエスさまに問うしかない。そんなことを変わらず思い続けている。それがわたしの悪の問題に対する現時点での最終回答であり、期待であり唯一の希望でもある。この理由は神秘に属するものなのである。
 待とう。少なくとも1億年以内にはきっと最後の審判が行われることだろう。わたしはその時には骨になっている。これを読んでいるあなたも骨になっていることだろう。で、復活してイエスさまに問うのだ。「なぜ悪はあったのですか?」と。

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