理想とアーユルヴェーダ的生き方

いろいろエッセイ
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 理想。わたしたちにはこうあったらいいな、という理想がある。それが高い基準にせよ、そんなに高くない基準にせよ、ともかくそういったものはおそらく多くの人にはあるだろうと思う。
 わたしにも理想がある。
 まず、朝は5時か5時半に起床。ってまず、それから今日はできていなかった。昨日、何だかんだ寝るのが11時になってしまったわたしはその時間に起きることができなかったのだ。で、結局朝は8時頃起床になってしまい、一日を有効に使えずじまい。
 それからわたしの二つ目の理想は(目標と言い換えてもいいかもしれない)、毎日ヘブライ語を一時間勉強すること。が、これもできていない。毎日曲がりなりにも勉強することはできているものの、それがコンスタントに毎日1時間とはできておらず、平均して30分とか40分くらいになってしまっている。
 三つ目の理想は……、と星の理想などあまり興味がないと思うので割愛させてもらいたいと思う。って自分でここまで書いておきながら、こういうことを言うのってどうかとも思うけれど、こうして例を挙げながら何を思うかと言えば、案外みんな理想通りには物事にしろ生活にしろ、できていないんじゃないか、ということだ。
「わたしは今、完璧に理想通りの生活ができていて、すべて順風満帆で問題なしでまさに理想を描いたような生活を送っています」と言う人もわずかながらもいないことはないだろう。しかし、それはかなりの少数派であると思う。というか、完璧に何の妨げもなく理想通りにやることを、できていることを追求するとコンピューターとか機械になりません? ひたすら休憩も補給も必要とせず、遊び心も何もなく、ただプログラムされたことをひたすら脇目もふらずに実行していく。冷徹無比な機械。
 わたしは人間には無駄なことが必要だと思う。それもくだらないくらい無駄なことが。わたしが飼っているかたつむりだって、言ってしまえば無駄だ。それによって何か収益が得られているわけでもないし、まぁ、強いて言えば精神的安定にはつながっているものの、それだって無駄だと切り捨てることはできる。
 目的と結果だけがあるとしたら、いかにその目的に到達できるかがすべてとなる。朝5時頃に起きたいのであれば叩き起こしてでも起きればいいし、ヘブライ語だって自分に鞭打ってビシバシ、ビシバシやればいい。ただそれだけのことだ。それなのに、なぜそれができない? そんな簡単な自分を律することがなぜできない? そうしたところまで突っ込まれる時、そこに人間らしさがあるのか、という話になってくるように思う。理想通りにできたかどうかだけを基準にしてわたしの行動をジャッジするなら、わたしは不合格だ。でも、そのできないところに人間としての味があるんじゃないか。決めた通りに、言われた通りにできない。そこにこそ味わいがあるのではないか。もちろん、こうした言葉はできない、できていない人間の言い訳なのかもしれない。そんなことぐだぐだ言ってないで、理屈を持ち出さないで、そんなことを言っている暇があるんだったらやることやれよ、てな話なのかもしれない。でも、この理想通りにいかない、理想通りにできないというところに人間らしさがあるように思えてならないのだ。
 そもそも人間は生き物だ。ということは毎日、いやもっと言うなら毎瞬間ごとに違うということだ。同じ人が毎日同じように生きているだけのように見えても、その日、その時間の、その時というのはまるで一期一会のようなものであって、同じ状態が二度とやってくることはない。瞬間ごとに移り変わって、元の川にあらずなわたしたちなのだ。だとしたら、それを毎日何が何でもこれをやれ、とか、これをやらなければならないとがんじがらめに厳しく縛り上げるのは得策ではないように思えてこないだろうか。毎日違う、毎瞬間違うわたしたち。だったら、その流動していくその時、その時に一番しっくりくることをやっていった方がいいんじゃないか。これは生活の目標とか目的に限らず、食べ物などにも言えて、一日あたりタンパク質を60g摂った方がいいという科学的な知識があったとしても、その日、その日によって体調は違うのだからより多くを必要とする時もあれば、そんなに必要としない時もあると考えるのが賢明ではないだろうか。それを杓子定規で一日に60gって決めているからと自分の体調やら行動やらを無視してまでもそれに従わせようとする。それはもしかしなくても自分への暴力ではないだろうか。
 だからなのだろう。アーユルヴェーダでは自分の体と心の声を聴きなさいって教えているんだ。自分の体がタンパク質を必要としていたら、そうしたタンパク質を多く含む食べ物を食べたいと思うだろうし、必要としていない時にはそんなに食べたいとは思わないだろう。何て優しい医学なのだろうか(アーユルヴェーダはインド発祥の伝統医学)。でも、甘いものがどれだけ食べてもやめられなかったり、唐揚げやお酒などが大量にほしくなるっていうのは、いくら自分の体がそれを欲しているとはいっても、それはアーユルヴェーダで言うところの「知性の乱れ」だということらしいのだ。自分の体の感覚が狂っておかしくなってしまっているから信用してはいけないのだと教えるのだ。
 このアーユルヴェーダの考え方を勉強や日々の行動に応用できないだろうかとわたしは考えてみたりする。自分の体と心に「今、わたしは何をやりたいのか教えてください」と教えを乞うのだ。と言いつつもある程度の方向性というか大雑把な目標などは持っておいたほうがいいと思う。さっきの話で言うなら、一日あたりタンパク質を60gというざっくりとした目標は立てつつも、それに何が何でも従うのではなくて、自分の内側からの声を聴きながら適宜増減していくというやり方。これを日々の行動に適用するなら、もう今日は疲れていて体の声が「休みたい」って言っているから今日の目標は達成できていないけれどこれくらいにしておこうか、とか今日の目標はすでに達成しているけれど、まだまだ物足りないみたいだからもう少しやってみようか、という感じになる。そして、目標にしても人間は生き物で移り変わっていく存在だからやりたいことだってその時、その時で変わっていく。だから、何が何でもこれをやり遂げるんだと考えるのではなくて、臨機応変にその時、その時で少しずつ変えていったり、大幅に変更していってもいいと思うのだ。
 何だかここまで書いてきたら気持ちが楽になってきた。人間は変わっていく存在だから、変わっていくことを恐れなくていいんだ。変わっていっていいんだ。とても気持ちが楽になりませんか?
 こうすべし、こうすべき。たしかにそのやり方にもメリットはある。けれど、デメリットの方が大きいような気がするんだ。キリスト教では自分を打ち叩いてでも従わせなさいといった克己を説く箇所が聖書にはあるんだけれど、あんまりわたしはそういうのが好きじゃないな。わたしはアーユルヴェーダ的な自分に無理なく、のやり方のほうが共感できるんだ。
 しなやかに生きるっていうのはそういうことなんじゃないかってわたしは思う。無理をして歯を食いしばることも時には必要だけれど、しなやかな人っていうのはそういう時にはそうした執着をいとも簡単に手放すんじゃないかな。それに無理をしていると本人だって苦しいし、結果としてその無理がまわりの人へも波及していって、まわりに優しく接することができなくなると思う。
 って甘いこと言ってる? でもね、これがしなやかさの秘訣じゃないかなって思うんだな(わたしはしなやかな人を目指している途上なのだけれど)。

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