ほっとさせてくれる人

いろいろエッセイキリスト教エッセイ
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 教会で礼拝が終わると毎回ではないけれど、それでもわたしが話をしたくなる人がいる。
 その人は落ち着いたおそらくユニクロで買ったであろう服を着ている。その服は自己主張している感じではなくて、慎ましやかに彼女の主義主張を物語っている。控え目。一言で言ってしまえば、そういうことになるのだろうとは思う。けれど、何というか彼女のまわりにはポカポカ一歩手前の(ほんのりポカポカみたいな)ほんわかとしたあたたかい空気が流れている。それはおそらく彼女が自分を良く見せようとか思っていないからだろう。ただただ彼女は自然体で、落ち着いていて、ただそこにほんわかといてくれている。
 一方、星さんはと言えば、そういう方向性を目指しつつも、向上とか野心がいまだ捨てきれなくて中途半端な感じで、ポカポカしてきているといいかなぁって感じ。でも、ついついテンションが上がると、早口になってまくし立てるように話してしまい、あれはまずかったんじゃないかって落ち込んだり反省することもある。さらには平安を求めつつも、全然平安じゃないじゃん、てな感じでギラギラ、ギラギラと目が血走っていることもしばしばだ。
 何で彼女がほんわかとしていて、やさしい印象を与え、威圧的ではない空気で相手と気負わずナチュラルなままでいられるのか。少しばかり考えてみた。それは彼女が安全な人だからだ、という至極当たり前な結論に至った。以前、このブログの記事でも書いたかと思うけれど、一緒にいてほっとする人、ほっとさせてくれる人というのは基本的に安全な人なのだ。というわけで、何が彼女を安全な人にしているのか、少しばかり彼女の言動、立ち居振る舞いを思い出しながら振り返ってみようと思う。そうすれば、安全な人というのが具体的にどんなことをしているかが分かるはずだ。
 まず、彼女はそう言えば、というかわたしと結構話をしてくれたけれど、1回も「これをやった方がいいですよ」みたいなアドバイスをわたしは彼女からされたことがないな。これだけ話をしていれば、これがオススメとか、これをやった方がいいとか、そうしたオススメ、アドバイスが彼女の口からわたしに向けて出てきてもおかしくないのに、そうしたことが振り返ってみれば一度もないのだ。これってなかなかできることではないと思う。わたしなんて、彼女に何回こうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないかとアドバイスしたことか分からない。しかし、彼女は一向にわたしにアドバイスをしようとはしない。それが意図的なものなのか、そうでないかというのは分からないけれど、とにかく彼女はわたしに何もアドバイスをしなかったし、そうした素振りを一度たりとも見せたことはなかったのだ。
 次に、わたしのプライベートなことを彼女は質問してくることもなかった。何というか、深く突っ込んでこないのだ。もちろん、話をしていけば彼女だってわたしに質問することもある。けれど、その質問が本当に必要最低限なもので、わたしの領域に土足でズカズカ入り込んでこられることもなかったのだ。別の言い方をすれば、当たり障りのないことを言っているだけとも言えるかもしれない。けれど、相手がふれてほしくないエリアにズケズケ侵入されたらやっぱり嫌なものだ。安全な人というのはここが違う。何も教会員同士の雑談でカウンセリングのような意識を変えていくような、深い本人の心のデリケートな部分にまでふれていく、そんな話をする必要もないのだ。また彼女は良心的とも言えるだろう。芸能人のゴシップ記事を大好物としているような人が持っている野次馬精神や貪欲な下世話さが彼女にはないようなのだ。だから、彼女にも悩みはあるだろうけれど、それでも心が安定していて成熟している。そんな風に思わずにはいられない。ともかく、相手のデリケートなところにはあえて上がらない、侵入しない。それが彼女を安全な人にしているのだろうと思う。
 3つ目は、こちらの意見をジャッジしない、批判しないことだろうか。これが彼女を安全な人にしている。だから、彼女は相手を「それは間違っていますよ」とか「だからダメなんですよ」などとは絶対に言わないし、相手の意見に対して自分の意見を対抗させたりすることもない。自分の考えが否定されると、人は身構える。もちろん、人それぞれ意見は違うのだから、あなたはこう思う。わたしはこう思う、というのはあっていいと思うし、むしろそれが自然だ。でも、それをあえて表明して表立たせない。また、その必要性を彼女は感じていないようなのだ。そこが彼女のすごいところだと思う。つまり、大人なんだろうな。
 たとえばわたしが「あんパンっておいしいですね」と言ったとする。安全でない人は「そんなのおかしいよ」「どうかしてるんじゃないの?」「いや、あんパンよりクリームパンの方が断然おいしい」「そんなことより、ジャムおじさんってかわいいよね」みたいなことを言う。自分が発した意見を大切にしてもらえない時、尊重してもらえない時、人はその人のことをやはり安全な人だとは思えない。自分の意見が大切にされない、ということは自分の一部である意見が粗末に扱われたのだから、結果的には自分が大切に扱われていないことを意味する。
 安全な人は同意できない時であっても「そうなんですね」と言って相手を尊重する。たしかにあまりにも公序良俗に反している場合には彼女だって「それは違うと思う」と言うとは思う。けれど、そうではなくて、ただ単に意見が違う場合にはただただ相手を尊重してくれるのだ。ほんわかと、あのやさしい笑みを含んだ眼差しで受け入れてくれるのだ。
 つまり、彼女が安全な人としてわたしに映るのは、彼女がわたしを大切にしてくれているからだと思う。三点、挙げてきたけれど、つまりはそういうことなんじゃないかって思う。相手を大切にする時、ジャッジや批判は必要ない(もちろん、明らかに相手が間違っていてそれを指摘してジャッジしたり、批判する必要に迫られる時はあるけれど)。アドバイスもおすすめのあれこれも必要ない。むしろ、相手を尊重と承認であたたかく包み込むのだ。わたしが彼女にひかれるのは、彼女がわたしの自己肯定感の欠けを埋め合わせてくれているから、ということなのかもしれない。でも、自分の存在を丸ごと、いちいち細かいことを言わずに肯定してもらえたらやっぱりそれって嬉しいよね。
 彼女のふんわりとしたあたたかさ。まるで羽毛布団か何かのような、そんな心地良さ。一朝一夕でできることではないけれど、その方向を目指していけば、彼女にわたしも近付いていけるかな。というわけで、まずはアドバイスをやめてみることからかな。できることからぼちぼちとやっていけたらと思う。安全な人になりたい。ふんわりとした人にね。

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