平安という青い鳥

いろいろエッセイ
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 最近、記事にも書いた近場にある森の公園へ行ってきて、シャワーを浴びて、今。何だか気分がとても高揚している。運動をしたせいなのか、どうなのか詳しいところは自分でも分からない。けれど、確実に言えることはテンションがいつもとは違うということだ。言葉が急にあふれてくる、というか創造力全開というか、そんな感じなのだ。
 頭って回りすぎても自分が何が言いたいのか分からなくなるみたいに、空回りしているのかもしれない。ちょい支離滅裂一歩手前だと思われるかもしれないけれど、しばしお付き合い願いたい。もう少しで平常心へと落ち着いてくるだろうから。
 さて、平安について。これまでのわたしは必死になって平安、平安とお題目のように唱えてそれを探求して実際求めてきた。が、平安は意外と身近なところにあることが分かった。何だ、インドへ行く必要なかったじゃん、ってね。別にインドへ行ったことがないのだから、インドの価値を正しく評価することなどできないのだけれど、それでもインドに行かなくても平安はすぐ近くにあったのだ。青い鳥はすぐ近くにいた、のだ。
 わたしの平安。それはスケールが小さくてしょぼいと思われるかもしれないけれど、ハンパないほどの満足感をわたしにもたらしてくれたものだ。それはヨガをやること。そして、近所の近場の森の公園へ小旅行のように森林浴へ行くこと。どうやらそれ以外にもあるとしても、おもにわたしにとってはこの二本柱のようなのだ。まるでメガネがない。メガネがない、って言ってたらもうすでにメガネをかけていたかのような、そんな至近距離に平安はあった。平安、見つかったよ。ついに見つかったよ。お前はクリスチャンなのに礼拝に平安を見出さんのかい、みたいなお叱りを受けることは重々承知だ。でも、礼拝は礼拝でまたすごい聖なる空間で意義があるものとして、今のわたしにとってはヨガと森の公園の二本柱がかけがえのない平安のようなのだ。もちろん、母も大切だし、母と共に過ごしている時間も尊く好きなのだけれど、今のわたしには申し訳ないけれど、この二本柱がもっとも平安を感じる瞬間のようなのだ。母と一緒にいる時にももちろん平安を感じている。平和で気の置けない人との会話は本当に素晴らしいもので癒される。でも、わたしが見つけたおもな平安の供給源になりそうなものは、それを超えていた(ってオーバーだよ、って言われてしまうかもしれないけれど)。興奮している。興奮しておりますよ、我らが星どんは。
 これを読んでくださっているあなたにも自分にとっての平安がきっとあるだろうと思う。レストランでチョコレートパフェを食べている瞬間が平安だな、とか読書に没頭している時が平安だな、とか、人それぞれあることだろうと思う。
 それを見つけた。やっと見つけた。自分にとってのベストなものを。それも持続可能なものを。ありがたい。ありがたや。神様、教えてくださってありがとうございます。やっと見つけることができましたよ。
 何千万円、何億円もする豪邸に住まなくても、超豪華世界一周の旅に行かなくても、元モデルとか元女子アナのきれいすぎる奥さんをもらわなくても、わたしは平安を得ることができました。お金を使って、それもたくさん使って、それでも平安を得られないともがき苦しむ前にわたしに平安を与えてくださった神様に感謝、感謝であります。
 意外な、意外なところに平安が転がっている。これって衝撃的じゃないですか。インドに行かなくても、世界一周のクルージングをしなくても、大富豪になって贅沢の極みを尽くさなくても、フェラーリ乗り回さなくても、タワーマンションの最上階に住まなくても平安は得られる。平凡な、ありきたりのようなことに平安が隠されている。それを見つけるか否か。そこだよ、そこ。
 興奮冷めやらぬ星どんでありますが、興奮が冷めてしまわぬうちにこの文章を終えることといたしましょう。
 一言。青い鳥だったんだな。

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