ハッピーバースデー

いろいろエッセイ
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 誕生日。そう、今日はわたしの39歳の誕生日なのだ。40歳、華(?)の40代も目前というところまできましたわれらが星さん。少し前まで自分は20代だと思っていたのに、気が付いたらもう四十路手前。わたしの中では40ともなれば、もういい歳したダンディーなおじさまだから、自分もそんな感じになるもんだと思っていた。思い込んでいた。でも、今のわたしを見てみるとダンディーかどうかはともかくとして(ダンディーとはちと違うかな)、とてもおじさまといった貫禄はどこにも感じられないし、おじさまどころか見た目は20代後半のお兄さんのままなのだ。何も若さ自慢とか、俺は若いんだぞみたいなことを誇りたいわけではない。ただ、あまりにも社会的な責任というか、労働とかしていないから(一般的にいう仕事ね、仕事)、そういう意味で若造の雰囲気が抜けきらないということではないかと思う。
 わたしの若さの秘訣は何かというと、お酒を飲まないこと(1滴も飲まないの)と暴飲暴食をしないことと、読書などの学びをひたすら継続していることだろうか。あと、加えて言っておくなら、数ヶ月前から始めたヨガ。それらが総合的に渾然一体となって、今の星さんのお兄さん的な雰囲気が成り立っている。そんな感じなのだ。
 さて、ハッピーバースデーとくれば何かなって考えると、たくさんの友人たちに祝福されて、クラッカーでもパーンとみんなからやってもらって盛大に祝う。ハッピーバースデーの歌の大合唱の中、バースデーケーキに立っているたくさんの火が灯されたろうそくを「ふー」って消す。で、パチパチ~(みんなから拍手~)。てなことを想像したりするけど、あいにくわたしにはそういうお友達がいないの。星って寂しい奴なんじゃないの、てな眼差しを向けられると、それを否定できないけれど、でも、これはこれでいいなって思ってる。別にいいもん。開き直るけど(開き直るんかい!)、そういうみんなからの祝福がないことは別にそれならそれでいいなってね。
 そういうのもいいけれど、今朝、わたしは母からあたたかい声で一言、「お誕生日おめでとう」と言ってもらえたんだ。何かそれだけですごく満足したし、何が何でも盛大に、というのも違うような気がするんだ。
 誕生日。誕生日ってすごいことなんだよ。というのは、1年無事に生きていたってことなんだから。もしわたしが38歳の間に自殺したり、事故にあったり、重い病気になったりして亡くなっていたらハッピーバースデーは祝えなかったんだ。1年間、無事に生きていて、誕生日を祝えるということ。それはすごいことで、奇跡と言ってもいいかもしれない。誕生日を別の言い方をするなら「生きていてくれてありがとうの日」だと思う。そして、神様に無事に誕生日を迎えられましたことを感謝いたします、っていうのが筋だと思う。と言いつつ、まだ神様にその感謝の言葉を捧げていなかったけれど。
 母の「お誕生日おめでとう」という言葉がまるで「生きていてくれてありがとう」というニュアンスをもって深く聞こえてくるのだ。しみこんでくると言ってもいい。
 だから、みんなで盛大ににぎやかに誕生日を祝うのもいいけれど、そうではなくて、しみじみと、ただしみじみと今日という日を迎えられたことに思いを馳せる。誕生日を迎えられたことを味わって、ただただいろいろな人や神様に感謝を捧げる。そういう日であってもいいのではないかと思う。
 誕生日の本当に意味するところ。そこを感じ取ろうとする時、ただにぎやかなだけのお祭り騒ぎではなくなってくる。そうではない。自分が今日、誕生日を無事に迎えられたことをしみじみと感じる日なのだ。それこそ、誕生日の本来のあるべき、と言ってしまってもすこし肩に力が入ってしまうけれど、それこそ誕生日の意味するところなのだ。ハッピーバースデー、直訳すると幸せな生まれた日。
 39歳もいい1年でありますように。神様、どうかいい1年にしてください。

追伸:誕生日のお祝いということで天ぷら屋さんへ行き、おいしい天ぷらをいただきました。それから2つで300円くらいのイチゴのショートケーキがバースデーケーキに。幸せな誕生日でした。お母さん、ありがとう。

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