少し前まで、昔の写真を眺めていた。それはもう10年前の光景で、あの頃はまだ両親は離婚していなかったし、祖母は当たり前だがもちろん生きていたし、祖父も施設には入っていなくて自分で歩けていたし、わたしも今よりも若かった。
この写真、どうやら新年、祖父母の家に家族みんなで集まった時のものらしいのだ。テーブルにはスーパーで大量に買ったオードブルやらお寿司やら豪勢な御馳走。みんな嬉しそうに笑っていて、とても楽しそうだ。と言いたいところだが、ひとり場違いというか、異質な空気を放っている人物がいる。目がうつろで、つまらなそうで、不満たらたらそうで、「幸せですか?」と訊ねようものなら「そんなわけないだろ。余計なお世話だ」と冷たく跳ね返しそう、てなくらいの元気さえもない生気が感じられない表情。そう、それがわたしなのだ。星大地、当時28歳。
その頃わたしは哲学にかぶれていた。人生の不条理に真正面からぶつかっていって、どうしようもないくらいに突き返されて、それならもうやめればいいのに、それをやめたらごまかしているような気がして、とても罪悪感で、とにかく下を向いて、下を向いて、どこまでもネガティブな議論をネット上で日夜繰り広げていて、そして毛の生えた意地悪な哲学系ネット住民に罵倒されて、意気消沈しているような、そんな暗いネクラなお兄ちゃんだった。楽しくない。とにかく毎日が楽しくなかった。毎日が苦行のようなまさに苦役。
おそらくわたしはこの時の豪華な料理も「まぁ旨いな」くらいの低めのテンションで平らげていたことだろう。それとか、「金出せばうまいものが買えるのは当たり前」とか考えていたかもしれない。その当時のわたしには、感謝とか嬉しいとか生きる喜びといったものは縁遠く、皆無だった。
また、その頃のわたしは精神科で処方されていた大量の薬を飲んでもいた。だから、ということもあるのだろう。目がうつろで、とりつく島もないような、そんなもっさりとした重い空気を放っていた。
もしも、わたしがイエスさまに出会っていなかったらと思うと、おそらくあの調子が今も続いていたことだろう。つまらなそうなうつろな目で世界を眺めて分かっているような気になっている傲慢な調子で。
キリスト教の教会へ行くようになって、わたしは大きく変わった。よどんでいたドブ水に、きれいな清水が流れ込んできて少しずつ浄化されていったような、とでも言ったらいいだろうか。
教会の人たちはわたしに優しくしてくれた。愛に渇き切っていて、カラカラを通り越して行き倒れになっているようなわたしを介抱するかのようにあふれるような愛を注いでくれた。良質な何物にも代え難いイエスさま由来の愛をわたしに存分に注入してくれた教会の人たちだったのだ。言うまでもなく、わたしは高校、大学時代と人間関係で深手を負いとても傷ついていた。人間不信というか、人間っていうのはみんな自分勝手で自己中なものだと思っていたくらいなのだ。そんなドライな人間関係から一変してわたしに与えられたキリスト教的な優しさや愛情。どんなに身にしみたことか分からない。
当時のわたしに必要だったもの。それは哲学などの議論や知識などではなかった。本当に必要だったのは、そして無意識下で渇望していたのは愛だったのだ。それも条件付きではなくて、ただ純粋に施される無償の尊い愛。「愛なんて要らない」と言語化こそしていなかったものの、そんなひねくれた心さえ持っていたような当時のわたしが本当に求めていたもの。それも求めて今まで得られなかった、ほしくてほしくて仕方がなかったもの。それが愛だったのだ。もちろんわたしは不幸な家庭で育ったわけではなくて、親などの家族からは愛情を受けてきていた。けれど、それ以外の人から承認されることは、高校以降はほとんどなかったし、いつも孤独だったと思う。
で、今のわたしは、と言うととても目がパッチリとしている。10年前の写真と比べたら目がしっかりと見開いている。まるで整形でもしたかのような、そんなビフォアーアフターぶりではないかと思う。要するに、目がパッチリと開いてうつろではなくて、顔の表情から生命力が感じられるのだ。もちろん、今のわたしだっていつも目がパッチリとしていて、生気にあふれているわけではないけれど、10年前と比べたら、比べようがないほどの変わりぶりだ。星さん、これ同一人物だと思えないよ、てなばかりの変わりようなのだ。
10年後、今よりも明るい表情でにこやかに笑っていたいな。どうなっているのかしら。10年後にはもう48か。10年後、その時のわたしが何を思うか、今から楽しみだ。
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わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。