ジャッジを手放す

いろいろエッセイヨガ
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 5月の半ば頃からヨガを始めて、もう4ヶ月近く経とうとしている。その間、毎日のようにヨガマットの上でDVDを見ながらヨガを続けてきた。継続は力なり、とはまさにこのことで、わたしは本当にヨガの恵みを神様から一心に受けていると思う。
 が、DVDだけでは何か物足りなくなってきた。実際にヨガというものを習ってみたいと思うようになったのだ。というわけで、ヨガ教室に通い始めたわたしなのである。ヨガ教室と言っても、ヨガを極めるとか、難しいポーズをバンバン決めるとか、そういう類の教室ではない。いわば、シニア向けと言ってもいいような、ゆるいヨガの教室に通うことにしたのだ。だから、まわりにはシニア女性、つまりは俗に言うおばちゃんしかいない。まぁ、正確には男性も他に一人いることはいるのだけれど、その方も年輩の方で、若い男といえばわたししかその教室にはいないのだ。だから、おばちゃんパワーに終始圧倒されながらのヨガ教室といった感じ。
 日本が誇るもの。それはおばちゃんだと思う。ヨガ教室に通っているおばちゃんたちはとにかく明るくて前向きで元気そのもの。高齢だから病気の一つや二つはあるとは思うけれど、それでもそういったことは微塵も感じさせないような活力というかパワーを彼女たちから感じる。そもそも、シニア向けのゆるいヨガ教室とはいえども、そういった場所にお金を払って来るくらいだから、向上心もあるし、健康意識も高い。極端に肥満な人はいないし(まぁ、軽いぽっちゃり体型の人は結構いるけれど)、上々といったところだ。
 そんなおばちゃん軍団にまわりを取り囲まれて、わたしが一番若いかと思いきや、教えてくれる先生が一番若いのかもしれない。とは言えども、その先生が何歳なのかは分からない。もしかしたらわたしよりも年上なのかもしれないし、いやいや、年下なのかもしれない。そういうわけで、おばちゃんパワーにポツンと二人、先生とわたしの若者がいるという構図。
 おばちゃんたちにとって若い男というのはいいものらしい。何だか数名の話をしたおばちゃん(いや、おばさまと言うべきか)が妙に嬉しそうだったな。中には結構はっきりと「若い男の人がいるといいよね~」と言う人もいたし。そういうわけで、星さんシニア向けのヨガ教室で、紅一点ならぬほぼ男一点になっております。この調子で(だからどの調子で?)いけばヨガ教室のアイドルも夢じゃないってか?
 それはさて置き、今回書きたいことのメインはおばちゃんについてではなくて、ヨガの先生がわたしに言ってくれたちょっとした言葉についてなのだ。その言葉からわたしは目が覚める思いがした。ハッとしたというか、我に返ったというか。本当に教えられたのだ。それは「ジャッジするんじゃなくて……」という言葉だった。
 わたしは割合荷物の整理にマイペースな感じで時間がかかるので、その教室が終わると自然と一番最後になってるんだ。で、大抵ヨガの先生とちょっと話をして帰るという感じになる。で、今日こんな話をした。
 今日、あるポーズというか、ヨガの動きでできない動きがあったんだ。それでそのことをヨガの先生に「できなかったんです」と残念そうに言ったんだ。さらには悲観するかのように「全然できなくて」とも言ったんだ。まだ始めたばかりなんだからできなくたって上等なのに「できない」という一点のみに焦点をあててそのことをヨガの先生に言うわたし。彼女はそれがわたしがまるで「自分はダメなんです」と言っているかのように聞こえたのだろう。で、わたしにその先生が言ってくれた一言が「ジャッジするんじゃなくて」だったのだ。
 先生は「ジャッジするなんて何てダメなの」みたいな言い方はしなかった。ただやんわりと「ジャッジするんじゃなくて」と言って言葉を濁したのだ。
 それを聞いた瞬間、わたしの人生は自分で自分をジャッジし続けてきたようなものだな、とハッとしたのだ。自分で自分をジャッジする。つまり、裁く。評価して判断する。値をつける。たしかに向上していくためにはジャッジして判定していくことも必要なことだろう。しかし、先生はその生き方をやんわりと「そうしない生き方もあるよ」とばかりに優しく包み込んでくれたのだ。その時、あぁ、それがヨガ的な生き方なんだ。ジャッジしない、自分で自分を裁かないありのままを認めていく生き方もあるんだなって気付かされたのだ。
 ジャッジする生き方。それは苦しい。できるか、できないか。できたか、できなかったか。つまり、合格か不合格かみたいな、そういったバッサリ切っていくドライな生き方。そうではなくて、ジャッジするんじゃなくて……。ハッとしたわたしは先生の言葉に次のような言葉で応えた。「そうですよね。その人にはその人のプロセスがあって、そのできないということに気付けただけでも大きいですよね」と。先生の言葉にうまく答えられたかどうか少しわたしは自信がなかったものの、先生は物分かりのいい星の受け答えに「そうですよ」と割合嬉しそうに返してくれたのだった。
 できない。だからダメ、ではなくてそれも自分の今の状態というかプロセスの一つとして受け入れる。ただひたすらありのままを、ありのままの自分を受け入れていく。今日のヨガの先生とのやり取りは決して長い時間ではなかったけれども、ヨガの道を歩く先輩としてすごく大きな気付きをわたしにもたらしてくれたのだった。
 自分をジャッジすることを手放す。なかなかこれが難しいのよ。他者をジャッジすることを手放すのはできるようになるけれど、自分をジャッジすることを手放すのは難しいですよ、とはアティテューディナル・ヒーリングを日本に紹介した水島広子さんも言っていることだ。
 ついつい、というか気が付くとわたしたちは他者をジャッジし、そして自分自身をジャッジしてしまっている。ジャッジしてしまうんだ。その結果どうなるかと言えば、他者にジャッジがされる時には、息苦しい上から目線の決めつけ合戦が始まり、自分に向かう時には自分へのダメ出しとなり自己肯定感はズタズタに切り裂かれてしまう。
 ジャッジを手放す。なかなか離れ業のように難しいけれど地道にやっていけばきっとできるようになるはず。ジャッジするのではなくて、ありのままの自分と他者を受け入れる。そこからとても豊かな世界が展開していくんじゃないかっていう気がする。ジャッジという評価を手放した自由な心地良い世界がそこには広がっていることだろう。わたしたちはSNSにしろ、何にしろジャッジし合うような世界に生きている。評価して、評価しまくり、そして反対に評価されて、評価されまくる。まくった結果、殺伐とした息苦しさがそこには残る。でも、ジャッジするのではなくて、ありのままを受け入れる。認める。もちろん、ジャッジするのは良くないとジャッジするのではない。ジャッジを手放すんだ。ジャッジから自由になるんだ。
 神様、自分と他者をジャッジするあり方から、裁いてしまうあり方からわたしを解き放ってください。そして、自由を与えてください。本当の自由を。

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