自分の力でキラキラ輝けると思ってしまう恩知らずなわたし

 キラキラ輝いている人。みんなが憧れるそんな人。そんな人にわたしもなりたい。そう思って毎日邁進しているわたしだが、最近息切れし始めている。と言うよりも、毎度の息切れなのである。
 キラキラしたい。キラキラになりたい。そう思ってハイペースで飛ばして、「し、しんどい」てな具合になって、また休んで、でまたキラキラしたいと思って頑張って、とやってと無限ループなのである。
 キラキラするのは楽じゃない。普通にやってたらキラキラできないからだ。キラキラするためには、普通の人よりも頑張らなければならない。他の人よりも輝くのは並大抵のことではないのだ。だから頑張る。何のために? キラキラするためさ。キラキラになるためさ。上昇志向の超ポジティブシンキング。前向き。一生懸命。ひたむき。努力。情熱。めらめら燃えております。てな具合で光るための努力は際限なく続いていく。どこまでも、どこまでも高みを目指して上り続けていく。
 のぼっていくこと。上昇していくこと。向上していくこと。これらは決して悪いことではない。人間ある程度の努力は必要である。でも、それが「すべき思考」となって自分自身を監視して四六時中拘束するものとなってしまったら、それは一体どうなのだろうか。健康を害しても、精神が病んでも決行されるキラキラのための道はいかがなものか。
 キラキラすることは大変なことである。どの世界でも一流になる人は普通の人以上のことをやっている。
 キラキラになりたい。なってどうするんだ? お金がほしい。権力が、社会的地位が、立場がほしい。いろいろ野望を抱く人には理由があると思う。わたしもいつかは成功したい。それで多くの人から尊敬されてちやほやされたい。
 でも、それってどうなの? 本当に価値のあることなの?
 いいことなんじゃないの。だって、みんながちやほやするわけだから、人気者で必要とされてるわけでしょ。
 今ふとこんなことを思い出した。90年代のかっこいい男の代名詞だったキムタクがたしかこんなことを言っていたのだ。「俺はピンクの豚だ」と。普通の豚の中にピンクがいたらそれはそれは目立つことだろう。目立つ豚。目立っている豚。キムタクは自分はそれだけの者でしかない、ということを言いたかったのだろうか。ただ珍しくて目立つからみんなからちやほやされているだけのむなしい存在だ、と。
 キラキラする前の(つまりは成功前の)人はキラキラに憧れているのは当然のことだが、実はキラキラしてからが大変なんじゃないかとふと想像してしまう。上り詰めた先には下降しか待っていない。あとは下り坂。自分の人気がなくなっていく様子を目の当たりにしながら、ひたすら没落していく。それはつらいんじゃないかなあ。
 でも、そういう心配は人気者になってからすべきことであって、先取りするものではないし、先取りしたところで仕方がないとも言えるだろう。あくまでもこれは想像の話でしかないのだ。想像力をたくましくした結果、予想される結論でしかない。
 キラキラすることに、つまりは人気者であることに自分のすべての価値を置くとき、それがうまくいかなくなった時が破滅の時なのである。
 何も「キラキラ=人気者」という図式まで突き抜けなくても、「キラキラ=充実」で考えてもいい。この場合にも人気者のときと同じく、充実できなくなったら人生の敗残者になってしまうのである。明確な負け組意識である。
 そうした世俗の思考にまみれていることが多いわたしだが、ふと我に変える。また神様抜きの思考をしていなかったか、と。
 そうなのだ。迷ったら原点へ帰るのだ。迷わなくても原点へと帰った方がいい。神様という一番のホームへと帰るのである。
 神様はこんなわたしに次のようなことを言ってくれたように感じられた。
「あなたが幸せだと思うならそれでいい。」
 何か力が一気に抜けた。「キラキラしなければ」とか「頑張らなければ負け犬になってしまう」とかそんな喧噪から解放されたような気分なのである。
 神様に「わたしはこんなに頑張っているんです。すごいでしょう。」とか自慢してもどこかむなしい。神様がそういう次元のお方でないからということもあるのだろう。頑張っている人も、頑張っていない人も、あるいは頑張れない人も何ら区別せずに太陽のようにあたたかく照らしてくださっている。わたしにはそんな光景が浮かんでくるのだ。
 そもそも、自分で努力して頑張っているつもりになっていても、すべては神様からのギフトではないのか。贈り物なのである。その素晴らしすぎる贈り物をわたしたちは使わせていただいているに過ぎない。しかし、ともすると、神様からすべてが与えられているということを忘れ去ってしまって、俺が俺が、わたしがわたしが、と思ってしまうのである。そこに人間の傲慢さ、罪深さがある。
 わたしの肉体だって、頭脳だって、知性も理性も、家も衣服も毎度毎度の食事もすべて神様からのギフトなのである。一見自分の力だけで立っているように見えて、実はすべてが神様のお膳立てのもとになされている。すべて何から何まで与えられている。
 こう考えると社会的成功も自分の力によるものではないことが言うまでもなくはっきりしてくる。作家になってベストセラーを出せたとしても、その書く気力、根気、継続しようとする気持ちなどはすべて神からのものであり、そして、それがヒットしたのも神様が社会を土ならししてくださったからなのである。そう考えると神様に足を向けて寝ることができない。
 だから、わたしがしなければならないこと、と言うよりはして当然なことは神様に感謝することなのである。まず何をおいても感謝するのだ。わたしに与えられている素晴らしすぎるギフトに感謝することなのである。感謝しないとしたら、それこそ恩知らずだということになるだろう。
 だから決めた。「キラキラさせてください」と神様にお祈りをするのだ(笑)。ちょっと違うような気もするが……。やれやれ。


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