高卒の星さん名誉教授に嫉妬する

 何か釈然としない。
 今朝の新聞の下の書籍欄にある人が本を出したらしく、広告をのせていた。それがまた何とも頭にきた。これが負け犬の遠吠えであることは明らかだ。わたしは高卒でその人は最高学府の名誉教授。わたしなどその人から見たらカスにもならない、吹いて飛ぶような人間としか映らないだろうと思う。てんで話にならない。わたしとその人を比較するとそれだけの差がある。
 わたしはそう、うらやましいのだ。そして、嫉妬するのである。
 もうさぁ、お金もあるだろうし、生活には困っていないだろうし、名誉も手に入れていることだし、社会的地位も手に入れていることだろうから、本なんて出す必要なくね?
 つまり、この構造自体に対してわたしは嫌気がさしているのである。持てるものがさらに豊かになる。一方、持たざるものはさらに貧しくなる。むしろ、持っているものまで取り上げられる。
 わたしにはこう見える。肩書き使って儲けまくっているように見えるのだ。もうその肩書きだけでも十分よくない? まだ満足できないの? 足りないの? おいしい思いは存分にしたでしょう?
 低学歴者のひがみ、ねたみ全開でおそらくだんだん読んでいて不快になってこられたかもしれない。簡単な話、星が名誉教授に一方的に嫉妬している、それだけの話なのである。とてもつまらない話だとも言える。
 けれど、これには何か構造的なと言ったらいいのか、システム的というか、そうした問題が見え隠れしているように思えるのだ。社会学的に考察してみてもいいテーマのようにも思える。
 わたしも「高学歴になりたい」とただそれだけのために無理して受験勉強をしたこともあった。しかし、大抵一週間も経たないうちに折れてしまうのだった。続かないのだ。
 でも、逆に言うなら、それがわたしらしいとも言える。受験勉強が続かない、すぐに折れてしまうわたし。それもわたしなのだ。その弱い部分も含めてわたしなのである。みんなそれぞれ違って能力にも差がある。それに、勉強からドロップアウトして思ったことは、あのままエリートコースに進むことができていたとしたら、嫌な奴になっていたんじゃないかと自分でも思う。嫌な奴。勉強はできるけど人格的に問題があって、人間として貧しい奴。
 十代のころのわたしは、人間には勉強ができる優れた人間とできない劣った人間の二種類しかいないと思っていた。それだけが、つまりは勉強ができるかどうかだけが人間の価値であって、それから外れた人間はダメな人間、価値のない人間だと信じ込んでいた。でも、今はその学力至上主義が誤りだったと自信を持って言うことができる。
 勉強ができること自体悪いことだとは思わない。でも、それがすべてではないのだ。人間を構成する一つの要素でしかないとわたしは思っている。むしろ今のわたしは、勉強ができるけれど人格に問題がある人間よりも、勉強ができないものの人格が素晴らしい人間の方が優っているのではないか、と言うよりも優劣の問題ではなくわたしの好き嫌いの問題として後者の方にわたしは魅力を感じる。もちろん勉強ができて、しかも人格的に優れている人間は鬼に金棒で恐い者なしなのだが、それは置いておくとしよう。(わたしが嫉妬した名誉教授はこのタイプなのだ。だからわたしはなおさら嫉妬する。)
 ここまで高学歴者を批判してきたわたしだが、案外そんなこと言いながらも、数年後とかにそうした大学や大学院へ所属しているかもしれない。まぁ、ないだろうが。万が一のこともあるので、予防線を張っておく(苦笑)。
 わたしたちは肩書きの力にとても弱い。東大、京大、早稲田、慶応、世界に目を向けるとハーヴァード、オックスフォード、ケンブリッジ。たちまち、それらの出身者であることを知ると恐れおののいてしまう。これらを卒業したことはたしかに一定の知性を保証することはするだろう。けれども、その人の人間性のようなものは、その学歴からだけでははかれないのである。その人と深く付き合ってみて、時間を共有してみて、はじめて人柄がわかり人間としてどうかが分かるのである。
 心理学的な実験でもしてみれば分かることだろうが、きっと高学歴の人が書いたと事前に聞かされた場合の方が、同じ文章であっても評価が上がるんじゃないか。だから、高い学歴を持つ人たちは、自分の文章に説得力を増すためにその学歴を全面に押し出してアピールしようとする。「東大○○」といった方が売れるのはそうしたためだ。
 わたしがブログを書いていて思うことは、みんな忙しいということだ。だから、厳選された良質だと思えるものしか読もうとしない。キリスト教だったら信徒の書いた文章など最初から相手にしないでスルーして、牧師や神父が書いたものしか読まない。たしかにそうしていれば良質なものに当たる可能性が高い。箸にも棒にもかからない素人の文章など読むに値しないと最初から除外する方が効率的で生産的なのだ。
 というわけで、わたしのブログは少数の心ある人にしか読まれず、ほぼ閑古鳥なのである。いいこと書いても箔がないとまず読んでもらえない。わたしはもっと自分に箔をつけた方がいいのかもしれない。
 だから、わたしは修行中の身なのである。これからひとかどの人物となるために今、チャージしていて、自分自身を鍛え上げているところなのである。
 わたしが嫉妬した名誉教授には仮にわたしに200年の時間が与えられたとしても追いつくことはできないだろう。それくらいの差だと思っている。
 でも、いいのだ。わたしはわたしのペースで歩幅で歩んでいくのみだ。わたしの到達したところがその名誉教授からみてつまらないレベルだとしても、わたしは頑張ったのだから、それでいいのだ。
 自分をまず肯定する。このことを忘れないようにしたい。


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