小さな小さな社会貢献

キリスト教エッセイ
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 今日、何日ぶりに新聞を読んだことだろうか。途端に、わたしの気持ちは複雑になった。暗く沈んでくる。新聞を読むというのは世間のたしなみとされているけれど、決してわたしたちに明るい希望を与えてくれるものではない。とにかく暗いネガティブなニュースのオンパレード。たしかに明るいニュースも載っていることは載っているものの、それでも人間の本能なのだろう。危機感をあおる暗いニュースばかりが目に飛び込んでくる。
 わたしには新聞も向いていないのだろうか。とにかくネガティブなニュースがダメで、たちまちわたしの晴れ渡った心は、多めの水の中に一滴のインクが落ちたかのように黒く染まってしまう。まぁ、こういうものなのだから仕方がない。
 さて、こういうわたしだけれど、わたしは幸せにはなってはいけないのだろうか、と思ってしまう。常にネガティブな情報と隣り合わせに、眉間にシワを寄せて「世界を良くしなければならない」とあれが問題でこれが問題だと問題を立てて立てて立てまくる。果たしてこれがいい生き方なのだろうか、ってふと疑問に思ったんだ。たしかに新聞を隅から隅までくまなく読んで、世界のことを知って世界の惨状を嘆く。その精神は高邁で尊い、のかもしれない。けれど、それはできる人だけやればいいんじゃないかって思えてきたんだ。少なくともわたしはネガティブなニュースを見ながら、情報を取り入れながら、それでもかつ幸せを感じるという器用な芸当ができない。
 それって視野狭窄だよ。自分にとって都合の悪いことを見ないようにして、それで自分はあぁ幸せだって悦に浸っている。そんなの不道徳だよ。あなたには不幸な人々に同情して嘆く義務がある。そして、誰か不幸な人が一人でもいる限り幸せになってはいけない。それが真摯な態度というものだよ。
 その意見は分からなくもない。20代のわたしはそんなことを日々考えていたからだ。あの頃のわたしは、少しでも自分が幸せだなぁとか、気持ちがいいなぁとか、満更でもないなぁとか、楽しいなぁと感じた時に、とても罪深く感じて罪悪感に支配されていたものだった。ご飯を食べていてこれはうまいかもしれないと思えば、世界にはお腹を空かせて飢えている人がいるんだ。餓死している人だっているんだ。こんな風に幸せを感じてはならない。楽しいことや嬉しいことがあっても、世界中では今も凶悪犯罪が横行していて、世界のどこかでは悲惨な戦争が行われていて、罪もない子どもたちが死んだり、殺されたりしているんだ。だから、幸福感など断じて感じてはならない。毎日こんな調子でわたしのメンタルは底打ち状態とでも言うべく、底をひたすら這いつくばっていた。
 わたしは幸せを感じてはならない。不幸な人がいるのだから。
 この考えにも一理ある。でも、このあり方をしている限り、わたしはいつも不幸であり続けなければならない。喜びを封殺して、ひたすら不幸な人々のことを考える。一見するとこの考えには謙虚さがあり、真摯であり、思いやりがあるかのように思える。でも、別の言い方をするなら、自分が与えられている神様からの恵みを足蹴にしているのだ。つまり、どんなに神様から日々の糧を含めてありとあらゆる恵みが与えられようとも、それに理由をつけて感謝しようとしない。幸せを感じてはならないと自分に課すということはその恵みを吐き捨てるようなものではないのか。神様からのプレゼントを苦虫を噛み潰したような顔で与えられているのに素直に受け入れて喜ぼうとはしない。
 誰かに何かをプレゼントした時に、その人が嬉しそうな顔をしてくれなかったら贈った方としてはいたたまれない気持ちにならないだろうか。つまり、そういうことではないかと思うのだ。
 もちろん世界には深刻な問題が山積している。でも、その問題があるからということでいつも不満足そうなこわい顔をしていたら神様からのプレゼントである恵みがつまらないものになってしまわないだろうか。だから、わたしはその日々の生活の幸せを感じるためにネガティブな情報とは極力距離を置きたいと思う。
 都合のいいことしか見ようとしないご都合主義だ。臭いものに蓋をするってわけね。現実逃避じゃないの?
 しかし、わたしにできることなんてたかが知れているし、わたしが新聞やテレビのニュースなどから距離を置いたところで損失はほとんど出ないだろう。強いて言えばわたしが世間知らずになることくらいで。だったら、わたしはわたし自身がもっと幸せになっていって身近な人に幸せを振りまこう。お裾分けをしよう。それだって立派な社会貢献だよね? 影響力は微々たるものかもしれないけれど、世界は少しだけ良くなる。それも確実に良くなっていく。
 今日、教会で礼拝があったんだけど、それが終わってから教会員の人と話をしたんだ。その時、わたしは相手の話をあたたかく聞くことができた。批判やアドバイスなどせずに、ただただ相づちを打って自分で言うのは何だけれど、優しく話を聞けたんだ。で、お互い何かとってもあったかい気持ちになれた。
 これだって立派な社会貢献なんじゃないの? 新聞とかニュースで情報を得るだけで何も現実社会においてやらないよりも、わたしは世間知らずではあるけれど確実に身近なところから世界を良くしているよ。わたしにあたたかく話を聞いてもらった人の家は今頃あったかい空気が伝染していって広がっていることだろうな。
 と言いつつも完全に矛盾しているけれど、この人ちょっとなぁとか無理と思ったら距離を置いたり、場合によってはブロックさせてもらっています。まだまだ修行が足りないなぁ。
 そういうわけで、小さな小さな社会貢献をしている星なのであります。まずは自分を満たすことから。以上。

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