「そのままでいい」と「もっと良く」との間で

キリスト教エッセイ
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 そのままでいい。ありのままでいい。努力なんてしなくたってそのままでいい。向上なんてしなくていい。ありのまま、そのままであなたは価値があるのだから大丈夫。
 たしかに頭では分かっているつもりだ。人間というものは何もしなくても、ただ生きているだけで価値があって、そのままで素晴らしい。こう言いたいし叫びたい。けれど、一方でやはり人間は常に向上していなければダメだという成果主義的な考えが頭をもたげてくる。
 この母性的な原理と父性的な原理。どう両立すればいいのか。いや、そもそも両立なんて不可能で、これらの原理は別々の人から提示されるべきなのだろうか。「そのままでいい。けれど、向上するのはいいことだから頑張れよ」というのは明らかに矛盾しているし、こうした言葉をかけられ続ければ「どっちなんだよ」と混乱し反発したくなってくることだろうと思う。そのままでいいなら、努力しろとかすべきだなどと言うのは筋が通らない。同様に、向上するように求めるのなら、そのままでいいとは言えない。
 この二つの考え方が両極端に現れている例として挙げられるのは、北海道浦河町のべてるの家と一流大学および一流企業だろう。この2つの方向性は鋭く対立している。
 精神障害を持つ人々のコミュニティとして有名なべてるの家の考え方はまさにありのままで、そのままで良くて、そのままで幸せになることを目指している。べてるの家は「社会復帰」というあり方に否定的で、自分たちは社会復帰するために生まれてきたわけじゃないんだと言い切る。それも言われてみればたしかにそうで、わたしたちは何も仕事をするために生まれてきたわけではない。そうではなくて、幸せになるために生まれてきたのだから、ありのままで幸せになれる道を模索するのである。
 一方、一流大学や一流企業の考え方はべてるの家とは反対の方向に振れ切っている。社会復帰するのはもはや当たり前のことで当然のことであり、その上でさらにいかにして高い目標を達成することができるか。より良く、より強く、より高みを目指してどこまでも自分たちに磨きをかけていく。そして、人間の価値とは、いかに偉大なことを死ぬまでの間に成し遂げることができるかということにかかっていて、そのために切磋琢磨し研鑽するのである。だから、べてるの家のような「ありのままでいい」などという考え方はエリートの彼らからしてみたら「いい気なもんだよ」「何、寝言を言ってるんだよ」てな具合ではないかと思うのだ。「ありのままでいい」って言ってしまった瞬間、もうそこで道は閉ざされてしまうのだ。
 ともかく、高みを目指したい人は目指して、その路線に乗っかりたくない人はやらなければいい、と単純明快に考えることができる。が、ことはそう単純ではない。頑張っている、つまり進歩向上しようとしている人たちが頑張らない(ではなくて頑張れない場合ももちろんある)人たちを批判するのだ。「お前ら何さぼってんだよ」「誰のカネで養ってもらってると思ってるんだ」と批判するのである。つまり、一生懸命働いている人が働いていない人を批判する。そして、その不満や批判が頂点に達すると「あいつら社会のお荷物だよね。生きてても無駄だよね」という思考へとなっていく。税金をたくさん納めてこの国を発展させる、もっと言うなら人類の発展に寄与するという大きな一つの物語への参加を拒む者、しない者を彼らは排除したくなってくるのである。
 たしかに朝から晩まで汗水たらして一生懸命仕事をしているのに、それをよそに何も働いていない人が同じだけのお金を手に入れていたら、さすがにやっていられないだろう。その仕事が好きで仕方がなくて、賃金がどうこうとか関係なくやりがいを感じているのなら、こうした不満は出てこない。けれど、嫌々やりたくもない仕事を生活のためにやっている場合、この不満は頂点に達することだと思う。そして、その矛先がさらに弱い者へと向けられるのだ。
 話がまとまらなくなりそうなので、最初の話に戻すと、わたしはこの2つの価値観の間で揺れ動いているのだ。わたしはどちらの道を採った方がいいのだろうと思案しているのだ。そのままでいい、という思想は素晴らしい。けれど、それでわたしは満足できるのだろうかとふと思ったのだ。ありのままでいいと思えないとしたら常にハングリー精神でいなければならない。どこまでやってもまさにハングリー。お腹が空いている。ではどうしたら? うむ、こうも考えられないか。およそ100年の人生でできることなんてたかが知れているのではないか、とね。人間が自力でできることなんてごくごくわずか。でも、やれることはやる。やりたいからね。やれることは着実に積み重ねていく。やるべきことはやるんだ。
 わたしに仕事があるとしたら、それは何よりも毎日を楽しく生き生きと生きることだ。言うまでもなくわたしには世間一般で言うところの仕事はない。けれど、生きるということが何よりの仕事なのだ。この仕事を放棄することなく最後までやり遂げる。それこそが責任ある態度であり、わたしに要求されていることだ。死んでしまったら仕事も何もない。だから、世間で言うところの仕事をするためには、その前段階として生存という仕事をしっかりとやっている必要があるのだ。こういうことを言うと甘いと言われる方もいるだろうとは思う。でも、逆に死んでしまって何が仕事ですか、と言いたい。仕事は生きるという仕事あってこそのものじゃないですか、と言いたいのだ。
 やりたいことを一歩ずつ積み重ねていく。一つひとつていねいにこなしていく。もうすでにわたしはありのままで価値がある。だから、神様から与えていただいた、示していただいたその価値に感謝して応答していくのだ。わたしには価値があるのだから、わたしのやりたいことにももちろん価値はある。べてるの家の思想の根っこの部分にキリスト教があることはご存知かと思う。ありのままでいい。そして、それに安心しながらやれることを神様のみ手の中でやっていく。これは矛盾しているのかもしれない。でも、これでいいような気がする。少なくともわたしにはやりたいことがあるのだし、それによってわたしが幸福を感じるのであれば、きっと神様は喜んでくださるだろうから。でも、神様と対話しつつやっていきたいな。
 2つの両極端な方向性の間で考えることができて実り多き時間だった。これは思索と呼べる代物ではないのかもしれない。でも、わたしにとっては意義があったのだ。わたしの方向性が見えたところでこの文章を終わりにしたいと思う。読んでくださり感謝、感謝です。

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