どのように時間を過ごしたかと1日24時間の行動記録を付ける。常にやるべきこと、やりたいことに追われている。たしかに充実してはいる。一日にやれるだけのことを詰め込んで、今日も一日お疲れさまでした、と眠りにつく。そんな日々をわたしは送っていた。が、そんな生活を4日くらいやってみた頃だろうか。何だが息が詰まるようで、圧迫感がハンパない。テレビの番組表のように行動記録を付けることにそんなわけでわたしは挫折したのだった。
挫折する直前にわたしは辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』を読んだ。何回読んでも素晴らしい本で、わたし自身、自分を見失いそうになると時折開くのだ。で、軌道修正するというか、「あぁ、人生急ぎすぎてたな」と我に返るのだ。
急ぐ。何のために急ぐのか。
効率化をするんだ。効率的にやるべきことをやって、余暇のための時間を残すんだ。その意気でやっていた。けれど、急いで捻出した時間はどこかへ水泡のごとく消えていってしまう。結局、スピードアップして生み出された時間は、また別の何かの活動のために使われるような始末で、さらに忙しくなってるだけじゃん、てな感じなのである。急げば急ぐほど、何もしない時間は削られていき、常に何かをしているような、そんなONとOFFで言うならONの時間ばかりになってしまう。急いで急いで急ぎまくって時間を浮かして、浮かした時間でもまた急いで、そしてまた時間を浮かす・・・。これって急ぎの極みではありません? 常に急いで、何もしない時間をどこまでも削っていって、ぼーっとしてる時間なんてなくなって、何も考えていないのは夜寝ている時くらい。
でも、さきの本を読むと、その本の中に流れているゆったりとしたスローな空気に心がまったりとするんだ。急がなくてもいい。というか、急いだところでせいぜい2、3倍のスピードアップにしかならないじゃん、てね。急いで時間を捻出するよりも、むしろ健康的な生活を送って長生きする方が断然時間は作れる。
わたしはもうじき40代になる。80歳くらいまで生きるとしてまだ40年もある。40年、わき目も振らず1分1秒を争うかのように生きてもたかが知れてるよ。それにそうした生き方って人生をやっつけ仕事の流れ作業のように生きてしまってない? 自分の人生の時間を何も味わえてないよ。
ついわたしたちは急いでしまう。時間を無駄にしないためにとわき目も振らず全力で猪突猛進で突撃してしまう。でも、その生き方は自分の命を大切にできていないように思えてきたのだ。わたしの心臓はこの瞬間にも拍動している。全身に血液を送り出し続けてくれている。
そもそも、わたしたちは何のために生きているのだろう。急ぐために生きているのだろうか。急いで急いで急ぎまくるために、効率や能率を向上させるためだけに生きているのだろうか。そんなことはないはずだ。効率、能率をやらせるなら人間なんかよりも機械やコンピューターの方が迅速にできるし、ミスすることもなく遂行してくれる。
ではなくて、わたしにしかできないこと。人間のわたしにしかできないこと。それは今という時を味わうことだ。そして、この瞬間に自らの幸せを感じていくことだ。だとしたら、猛スピードで駆け抜けていくのではそれを味わったり感じたりすることは難しいんじゃないか。
時を過ごす。いかにスケジュールを詰め込むかとばかり思案するのではなくて、この今をていねいにじっくりと味わう。どうしても、気が付くとシャカシャカ動いてしまっている自分がいるけれど、このあり方を見失わないようにしたい。
いかに速く効率的に大量に生産するか、ではなくて、ゆっくりとひとつひとつの生活の営みを大切にする。言うのは簡単だけれど、なかなか難しい。テレビのCMとか見ていると、次から次に購買意欲をそそる情報が矢継ぎ早に提供される。けれど、そうではなくて、たとえるなら瞑想でもするように、お祈りをするかのようにこの人生の時間を生きていくんだ。と言いつつもなかなかできないんだよ、これが。でも、方向性としてはこれで行きたいんだよなぁ。
急ぎたくなる。気が付くと急いでしまっている。でも、そこを踏みとどまるんだ。ゆっくり、ゆっくりとていねいに生きて行きたい。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。