あれはたしか3月頃のことだったかと思う。わたしはTwitterをお休み宣言したのだった。メリットとデメリットを天秤にかけて、やることもないなと思ったのだ。で、また最近Twitterを再開したわたし。懲りない?、と言うよりはまた戻ってきたのだ。戻ってきてしまったって言うと、何か良くないことやそうした環境に戻ってきてしまったかのようだけど、そんなことはなくてTwitterやるも、やらないもわたしの自由で、誰かに指図されることでもない。自分の意思でやる、やらないを決めていいことなのだ。
そんなわたし自身を見つめ直してみると、何でTwitterを再開しようと思ったのかはっきりとした理由がない。何となくやりたくなったから、ってな感じでこれだっていうような決め手もなかったのだ。ただ、流れるままに、まにまに~、ってか。結構、いい加減な星である。でも、何となく新築のマイホームを買ったとか、車を買ったとか、結婚することにした、などといったことと比べれば、それほど大きな決断ではなく、許容範囲内ではあるのだけれど。
何となく、か。で、Twitterを再開したわたしなんだけど、Twitterは人間と人間とのやり取りだから、どうしてもいざこざとまでは行かなくても気持ちがへこむこともあるんだ。何でそんなこと言うのかねぇ、って言いたくなるような看過できないコメントが自分に向けられるとやっぱりイラってしちゃうんだよね。星は言うまでもなく、メンタルが強い方ではないから、そのちょっとした相手との気持ちのずれとか、こちらの気持ちをくみ取ってもらえなかった時に、結構ダメージを受けてしまうんだ。「あ、そういう考え方もあるのね」って受け流せないんだ。真正面から相手のひと突きをズドンと受け止めてしまう。まぁ、わたしはめんどくさい人って言えば、そういう部類に入るのだろう。
そういうわけだから、SNSは両刃の剣ではないかって思うんだ。特にメンタルが弱い人にとってはね。ちょっと落ち込んでるとか、苦しいとか、助けてとかツイートすれば、みんな優しいから何かそれに対して、声をかけてはくれる。そこで暖かい言葉をもらうこともあるだろう。でも、その一方でそれを良く思わない人たちもいて、傷口に塩をふるようなことを平気で言う人もいるんだ。SNSって無菌室ではないよ。みんながみんないい人で自分の気持ちを分かってくれて、汲み取ってくれるなんてことはない。まぁ、すべての人に神対応を求めること自体がもうすでに現実的ではないんだけれど、それでも自分の気持ちを無視されたり、否定されたり、汲み取ってもらえないのって嫌な気分にさせられるよ。
10年以上お世話になっている精神保健福祉士のWさんがわたしの地雷を一度も踏まないのは、ひとえに彼女の努力もあるだろうけれど、それ以上に何というか相手を尊重する態度を取ろうと日頃つとめているからだと思う。相手を尊重しながら、相手を傷つけるという芸当は誰だって無理なことだろう。
あぁ、そうか。相手を尊重できなくなった時にその人を怒らせてしまったりするのか。傷つけてしまうのか。やっと分かったよ。上から目線で相手にものを言ったり、けなしたり、馬鹿にしたりなんてことも尊重とは対極にある態度だ。
Wさんはいつもわたしのことを尊重してくれていた。この10年ちょいを振り返ってみると彼女は一度もわたしに何かを命令したことはない。「こうしたらどうでしょうか?」とアドバイスを求めた時には答えてくれるけれど、それも控え目なのだ。
一方、わたしときたら昔ほどではないものの、それでもすぐに相手にアドバイスしたくなってしまう。相手が求めているわけでもないのに、つい、こうした方がいい、ああした方がいいと言いたくなってしまうのだ。うーん、未熟なわたし。
さて、Twitterをやるか、やらないかという話に戻りたい。思うんだけどあえてやらなくてもいいかなって気もする。どうせ、というかわたしのツイートはほとんど誰からも注目されていないし、わたしがTwitterをやらないことによって何か不利益が生じるわけでもないからだ。わたしがTwitterから離れても特に誰かが困るわけではないし、Twitterの住人たちも「まぁ、いいんじゃないの」みたいな感じだ。
何かをやるか、やらないか。続けるか、やめるか。何をやるか以上に大切なのが、何をやらないかだとアーユルヴェーダでは教えているんだ。引き算の発想だという。たしかに体に悪いものをたらふく食べながら、健康にいいことをどれだけやっても効果が打ち消されてしまうように、わたしもTwitterをやめた方がいいんじゃないか。どんなに健康的なアーユルヴェーダ的な生活を送り、ヨガをやり、朝散歩をやったとしても、Twitterの悪影響という一滴の黒いインクが水全体を黒くしてしまうのではないか。現に、昨日だってTwitterであった面白くないことが、幸せいっぱいの心を一気に荒らして乱したじゃないか。そうだな。もしかしなくても、わたしにはTwitterは向いていないのかもな。メンタルが弱いわたしにはそもそもSNSは向いていなかった。そういうことなのかもしれない。
別に情報を自分の中にすべて入れる必要はない。本当に自分にとって必要な情報を入れればいいだけ。コミュニケーションについても同じだと思う。それによって気分が悪くなったり、感情がかき乱されるのであれば、無理してその人間関係を続けなければならない、ということもない。不要なものは思い切って整理してみるのもいいかもしれない。
ここまで書いてきて、Twitterをやめる方に7割くらい傾いているわたしだけれど、何か決定打がほしい。残りの3割を埋めてしまうくらいの決定打が。というか、そうしたものがほしいということは、つまり内心やめたいと思っているってことなんじゃないか。2ヶ月近くTwitterをお休みしていたわたしだけれど、何も困らなかったし、それはそれで楽しくやれていたんだ。だったら、それでいいんじゃない? 案外わたしは狭い世界でも生きていける人間なのかもしれないなって思う。あまり、交友関係を必要としないというか。孤独を愛するとか、そういうわけではないけれど、一人でいる時間も好きですよ。
試しにまた1ヶ月くらいTwitterお休みしてみようかな。それで幸福感上がるようであれば、明らかに幸せの足をTwitterが引っ張っていたんだなって分かるし、はっきりする。休もう。そして、休んでそれから考えよう。そんなわけで星さんはTwitter1ヶ月お休み~。あぁ~、やっと踏ん切りがついた。ぐだぐだ、ぐだぐだとああでもない、こうでもないとここまで書いてきたけれど、決められて良かった。
やってみる。そして、それから考える。やめることについても同じで、やめてみて、それから考える。軌道修正しながら幸せを追い求めていきたい。足し算ではなく、引き算の発想を取り入れ始めた星なのである。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。