一流になれなくても

 精神状態が良くない。今日は執筆はお休みするつもりでいたのだけれど、自分のこの負の感情を鎮めるためには書くしかない。
 はっきり言って面白くない。昨日、和田秀樹さんの本を読んだ。そこまでは良かった。けれど、今日になって気持ちが落ち込んできたのだ。和田さんは本の中で言う。成功したければ成功している人のマネをしたらどうか、と。たしかにそうだな、とわたしはすごく納得した。わたしが社会的に何かの分野で成功できていないのは、おそらく自己流でやり続けているからなんだ。そう思うと腑に落ちて、やる気がわいてきたのだった。
 で、今日。エッセイストになるにはどうしたらいいか調べてみた。最初は意気揚々と調べていたわたしだけれど、だんだん気が滅入ってきた。エッセイストになるには、際立った何かがなければならないらしいのだ。作家、タレント、俳優などとにかく輝く経歴がなければならない。つまり、肩書きが必要。
 わたしには何の肩書きもない。あるのは吃音と精神障害とクリスチャンであることくらい。何かで大きな賞をとったこともなければ、一流大学を卒業しているわけでもない。一芸に秀でているわけでもなければ、仕事などを何か極めているわけでもない。要するに、あらゆる意味でわたしには何の魅力的な要素もないのだ。もっと言うなら、中途半端。キリスト教神学だって独学でかじった程度で、神学校に行ったとか牧師であるとか、そういうわけではない。何から何まで中途半端で人に「これがわたしの強みですよ」などと誇れるものがないのだ。まず、何者にもなれていないんだ、わたしは。
 こんな凡人の文章、誰が読みたいと思うんですかね? わたしの平凡な肩書きでは、アピールがほぼ無いに等しいし、興味を持ってもらうことも言うまでもなく難しいだろう。
 あぁ~、くさくさしてくる。社会は、世間様はわたしに「今のあなたではダメだよ。もっと頑張るように」としたり顔で努力を要求してくるのだ。
 和田さんは「マネしたら」って簡単に言うけれど、マネできるなら苦労しないよ。すごい人になるには、それなりにすごい人になるために努力する必要がある。まぁ、努力しないですごい人(成功者)になろうなんて言うところが甘いのだろうけど。和田さんだって成功者だ。勝ち組の一人なんだ。東大医学部に入れて、医者にもなれて、大学の先生にもなれて、映画の監督にもなれて、ってそんなの無理だよ。エッセイストで一流の人を見てマネしようとしても、ほとんど無理なレベルと言ってもいい。まず、作家になるのが難しい。新人賞だって全国から1500人とか2000人くらいの応募があって、その中で頂点に立たなければならないんだ。誰だってできる道じゃない。さらにその登竜門に入れたとして、その作家の中で成功できる人はさらにその中の一握りにもならないんだ。そこまで到達できて、やっとエッセイを書いて読んでもらえるレベルになる。
 とここで一つの疑問がわいてきた。三流はダメなのだろうか。一流でなければダメなのだろうか、という疑問だ。
 一流はかっこいい。光り輝いている。まぶしい。いけてる。でも、だからと言って、三流に全く価値がないかと言えば、それは違うんじゃないか。もちろん、一流を目指すことや一流になりたいと思う気持ちは尊い。チャンピオンになること、そこまで行かなくてもプロになって活躍すること。それはかっこいいことだ。サッカー少年なら、プロサッカー選手になること、そしてゆくゆくは日本代表を目指すことは自然な流れであり、夢として思い描くことだろう。でも、そのプロサッカー選手や日本代表選手を三角形の頂点の小さなピラミッドだとしたら、その下には日本のサッカー人口を下支えしている多くの人々がいるのだ。さらには、そのピラミッドの中にもいないサッカーとは距離を置いた人々とくれば、それとは比較にならないほどいるのだ。
 一流ではなくても、三流ながらもそのサッカーならサッカー、文筆なら文筆を楽しんでいる人がいる。それによって幸せを感じている人がいる。そんなおびただしい数の人たちがいることをついついトップの人たちばかり見ていると忘れてしまう。一流は素晴らしい。一流なものは人々に素晴らしいものを与えてくれる。けれど、三流だっていいんじゃないの? 三流の文筆家にだって書き続けている限り、意義はあると思うよ。
 この三流の文筆家はおそらく生涯に書くことによって収入を得ることはまずないだろう。その人の文章からはお金が発生しないからだ。でも、その人がその人らしく、生活を向上させるために、もっと言うなら幸せになるために文筆活動を続けていくならそれもありであって、いいんじゃないか。賃金は発生しない。でも、その文筆は尊いものであり、決してダメなんかじゃない。ムダとか意味がないとか、そんなことはないんだ。
 今日も日本のいたるところでお金にならない文章を書いている人がいる。どんなに書いても、お金にはならない。でも、かえってそれだからこそ書ける文章というものがあるんじゃないか。わたしの文章を読むためにお金を出してくれる人がいるまでになったら、もちろん嬉しいとは思う。でも、そうなれなくても、いつまで経っても低空飛行のままであったとしても、それがわたしなんだから仕方がない。そうなったら、あきらめるさ。でも、夢を追い続けながらも、書くことの楽しさや充実感などを見失わないようにしたいな。将来、一流の文筆家になれるかどうかは分からないけれど(おそらくなれないと思う)、それでも書き続けていたいな。
 一流でなかったら意味がないんじゃない。三流にも意味はあるんだ。価値はあるんだ。
 いつまで経っても終わらないヘボ将棋。三振ばかりのヘボ野球。そして、それと似たようなわたしの振るわない文筆活動。どれも素晴らしい。下手なら下手でもいいじゃない。昨日の自分と比べて1ミリでも成長できてたら、万々歳だよ。そんな平凡な人々が今日も世界を紡いでいる。尊いなぁ。

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