自己満足

いろいろエッセイ
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 人生は自己満足に過ぎないのではないか。そんなことを今ぼんやりと考えている。急に何を言い出す、と思われたことだろう。でも、そんな風に思えてきてしまって何だかやる気が出てこないのだ。鬱? 抑鬱状態? いやいや、そこまでは行っていない。でも、嬉しくもなければ、悲しくもないし、怒りを感じているわけでもない。まさに平らな平板な、言うならば水平線みたいな、そんな境地にいる。
 人生って儚いね。諸行無常だね。時は容赦なく流れていって、しばらすくすると今生きている人たちはみんなもういなくなっていて、また新たな世代が新たな時代を築いていく。そしてまたその新たな次世代の人々もしばらくするといなくなって、と、どこまでもどこまでもこうした営みは繰り返されていく。この営み自体が無意味だとかしょうもないとか言うつもりもないし、何も言いたくてこんなことを書いているわけではない。
 海の波が寄せては引いて、寄せては引いて、と終わることなく繰り返している。この波は地球が消滅するまで続けられるのだろう。波が現れては消えていく。そして現れ、また消えていく。
 こういうことを考えていると物悲しくなってくる。というのはやはり修行が足りないからだろう。ここで醒めている人はきっと価値判断なんかは差し挟まないはずだ。ただ、波が寄せては返す、寄せては返すを無心になって眺めている。瞬間、瞬間、生成して消滅していくまるで点滅しているかのようなそんなわたしたちならびにこの世界を眺めて達観している。
 人間は儚い存在だと思う。何かを頑張って成し遂げたとしても、またはそうではなくてもどちらにしろ死んでいく。そこに宗教的な考えを持ち込まない限り、そこに救済はない。でも、救済って何なんだろう、とも思う。救われたところでそれが何なのだろうとも思ったりするのだ。わたしはまるで保険でもかけるかのようにキリスト教の洗礼をしっかりと受けてあるから、真実がキリスト教的世界観そのものであって、その通りに進行していった場合には決して不利になることはない。が、それすらも自己満足なのかもしれないとわたしの冷めた思考は思い、考える。もちろん、地獄へ行って苦しい思いなどはしたくない。誰だって苦しいのは嫌だし、それは避けたい。でも、苦しみがなかったとしたら後はすべて自己満足じゃないか、という気がするのだ。何をやっても、どんなに雷に打たれるような素晴らしい感動に心を震わせたとしてもそれは自己満足。
 自己満足、自己満足って言うけれどじゃあ、どうなったらいいのさ? どうなったら自己満足を超えることができるのさ? 答えてみせなよ。そう言われてしまうとたしかにすべてがわたしの見立てによれば自己満足に過ぎないのだから、これも自己満足で、あれもそう、なんて言うのは意味がないことだとも言える。何をそんな分かり切ったことを言うんだ。全部自己満足なんでしょ。だったらいいじゃん。自己満足なんだからさ。開き直るまでもなくすべてが自己満足なのだ。
 何かをやる。何かを成し遂げる。それらはすべて自己満足なのだろう。オリンピックで金メダルを取るのも、受験で難関大学に合格するのも、いい小説を書き上げるのも、家を買うのも、結婚するのも、子どもを持つのも、そしてそうしたことすべてを含んだ生きるという営み自体が。
 自己満足を超える方法。一つだけある。それはとにかく嫌で満足しないことをすることだ。あるいは何も考えずに無感動、無気力で生きることだ。でもなぁ、それらでさえも違うような気がしないこともない。結局、それらをやりたくないにせよ、何となくにせよ、自分で選んで行動している以上、自己満足を超えることはできていないのだろう。
 人間は言うまでもなく快を求めて行動する生き物なので原則として快にならないことはしない。気持ち良くなりそうではないことはしないのだ。だったら、それでいいのか?
 結局、人間の営みすべてが自己満足である以上、わたしに残された道はその自己満足的な快感を味わうことくらいしか残されていない。嬉しいことを嬉しいと心から喜び、食べ物を「これは美味しい」と幸せな気持ちで食べる。つまり、日々の当たり前のことを味わっていちいち(と言うのも何だけれど)喜べるかどうか。その一つひとつに無上の至福を感じることができるかどうか。思うに、同じ物を食べるのだとしたら「まずい」と思ったり何も感じなかったりするよりは「美味しい」と思える方が人生の満足度、幸福感は高まる。満足感、幸福感を高めたところでそれが一体何になるんだと言ってしまえなくはないけれど、どうせ食べるなら、どうせ生きるならその方が断然いいのではないか。「まずい、まずい」「つまらない」「面白くない」「退屈」などと不満をもらしているよりもそうした日々の当たり前のことを喜べる人の方が人としても魅力があるのではないかと思う。
 所詮、人生は自己満足なのだよ、と達観した意見を述べたくなる。じゃあ、その所詮のところの自己満足をおおいに満足できるかどうかにかかっているように思えてならない。人はみんなだいたい100年以内には死ぬ。だったらその限られた時間で幸せ探し、いいこと探しをしてその自己満足に大いに満足できればそれでいいんじゃないか。所詮、自己満足。じゃあ、大いに満足しようじゃないの。もう溢れんばかりの自己満足をしようじゃないの。喜んでいる人間に「馬鹿みたいに喜んでる」と水を差す輩もいることだろう。「安上がりな人間で結構なことだね」と否定してくる心ない人もいることだろう。でも、楽しんで満足して大いに自己満足したもん勝ちではないかと思うのだ。そんな高級な(金がかかったりいろいろ手間がかかる)自己満足でしか満足できない人をよそに小さなささやかな幸せを味わって幸せマックスになっていればいいと思うのだ。
 わたしたちには毎日当たり前のように「これ、今日の分の自己満足ね」と言うような自己満足が差し出されている。だから、それを素直に受け取るか、手で払いのけて足蹴にするか、常に問われているのだ。それがキリスト教で言うなら、神様からのギフトなのであって、衣食住に必要なものすべてから何から何まで与えられているというわけなのだ。
 毎度毎度の食事だって味わって食べればあんなに美味しいものはない。が、普段わたしたちはその美味しさに無頓着になってしまっていて、何となくぼんやりとしか食べていない。味わっていない。噛みしめていない。それに意識を集中させると、「こんなに普段の食事って美味しかったのか」と驚くことだろう。
 人生に喜びを覚えるのも、覚えないのもそれは自由。お好きにどうぞ、という話だ。でも、それに喜びを感じられないのはもったいない。人生のほとんどのものをどぶに捨てていると思うし、そうした人であれば喜びどころか不平不満だらけだろう。
 所詮、人生は、すべての営みは自己満足。1から10まですべて自己満足。何をやっても自己満足で、この自己満足から逃れることはできない。だったらこの自己満足をしっかりと味わおう。これでもか、というくらいに味わってこの満足からしっかりと幸せを感じるようにしよう。
 何をやっても所詮自己満足で無意味なのかもしれない。でも、ここでわたしが感じる自己満足は、それも幸せを感じさせてくれる自己満足は少なくともわたしにとっては意味があり価値があるはずだ。意味とか価値というものはそういう主観的なものなのだからこの言い方が一番しっくり来るように思う。
 どうせ生きるなら、生きていくのなら、そしていつか必ず死ぬのだとしたら楽しんだ方がいいじゃないですか。しっかりと満足する方がいいじゃないですか。そう言いたくなる。
 自己満足というある意味冷めた言葉が息を吹き返したそんな7月も末の暑い昼下がりのこと。言葉の意味が変わってきたことにただただ驚いているわたしなのであった。

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