わたしの文章の価値は?

キリスト教エッセイ
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 反応がない。わたしがTwitterで新しい記事を書いたことをお知らせしても、ほとんど誰も「いいね」を押してくれない。何かとても寂しい。唯一、Fさんだけが2件くらい「いいね」を押してくれたけれど、Fさんにだって都合があり、必ず読んでくれるというわけではないだろう。ほぼ毎日、それも2000文字近く書いていて、こんなに一生懸命にやっているのに、世間の皆様の食いつきは一向にクールだ。
 まさに気分は売れないミュージシャン。あるいは文学青年の修業時代。下積みみたいなものだ。
 最初からドカンとブレイクして大爆発するなんてこと自体がそもそも虫のいい話なのだろう。今では大人気の芸人だって、今とはうって変わって、数年前は誰も振り返ってくれず、ほとんど無視されているような状況だった。
 大衆に本当にいいものが分かるのか、などと人々をけなしてみても一向にらちが明かない。孤高の陶芸家だって、誰かから評価されたからこそ、孤高として評価されるのだ。
 陶芸にしても本当にいい壷ってどんな壷なのだろうか。その良さは玄人にしか分からないのだろうか。その道を極めた人にしか分からないのだろうか。要するに専門家にしか専門家を評価することはできないんだよ。じゃあ、大衆は馬鹿なのか。愚かなのか。いいものもそうでないものも見分けることができない愚かな存在なのか。
 またしてもわたしは価値の問題にひっかかっている。どうしても避けては通れない問題のようだ。
 では、いい壷とはどんな壷なのか考えてみたい。この「いい」にも、いろいろな種類のものがあると思う。
 まずは、「実用的な」という意味での「いい」。この場合には壷としての機能性が優れているものをいい壷とみなす。使いやすい大きさ、深さ、耐久性、使い心地の良さなどが優れているもののことになるだろう。だから、実際に壷として使う時に役に立つかどうか。それが「いい」の基準なのである。
 次に、「実用的ではないが美的に優れている」という意味での「いい」がある。この壷は、実際には大きさが壷として使う分には適当ではないけれど、とにかく見ていて美しい。装飾美の点で優れている。
 最後に、「商品として高値がつく」という意味での「いい」もある。壷が実用的であったり、美しかったりするためにそれをたくさんお金を払ってでも手に入れたいという人が現れると、この「いい」になる。もちろん、その高値をつける人の数が多いか、少ないかということもあるだろうけれど、少なくとも誰かがこれは1万円の価値があるとみなすなら、その人にとっては1万円の価値があるのだ。
 では、これらを踏まえて、わたしのブログ記事の価値を考えてみたい。
 わたしの記事は実用的なのだろうか。それとも文学的な美しさがあるのだろうか。あるいは、誰かがお金を出してくれるのだろうか。普通に考えれば、美的な要素も若干はあるだろうけれど、それよりも実用性に傾いていると思う。でも、実用的な価値に完全に振り切っているかと言えば、そうとは言えなくて、実に中途半端な立ち位置ではある。最後のお金になるかどうか、という意味での価値に似たものとしては、賛同してもらえるかどうかということもあると思う。つまり、わたしの記事に対して多くの人が「いいね」ボタンを押してくれる。それも換金まではいかなくても、その手前の段階として価値をはかるものとして考えてもいいだろう。
 要するに、わたしは「いいね」を押してもらえた数から、自分の記事の実用性と美的の両方の価値を推し量ろうとしているのだ。誰からも「いいね」を押してもらえない。つまり、誰からも評価されないということは、わたしの記事に価値がないか、あってもきわめて低いということではないかと思うのだ。いや、そう思わざるをえないような状況がある。
 でも、ここで考える。本当に誰かがわたしの記事を「いいなぁ。素晴らしいなぁ」と思ってくれたらそれでいいんじゃないか、と。もちろん、文章のプロが読んで「これはすごい」とか「これはうまいぞ」という文章はあることだろう。いわば、玄人が認めた文章であり、記事である。しかし、玄人だって人間で、その人にはその人の好みもあるし、評価する時の偏りももちろんある。芥川賞の選考会だって、ある選考委員が激賞してほめまくったのに、別のもう一人がけなす、ということはよくあるそうではないか。だから、絶対的に優れている文章などというものはない。芥川龍之介の小説に、小説の価値を判定して点数をつける機械が発明された世界を描いたものがあったけれど、そんなことは神様でもない限り不可能なのだ。料理で言うなら、100人のうち99人が「まずくて食えないよ」と言っても、1人だけが「こんなに美味しいものはない」とほめちぎることだってあるかもしれない。言うまでもなく、99人もまずいと言うのであれば、それは一般的な意味では、つまり大衆の基準によればまずい料理なのだろう。
 しかし、数がすべてなのだろうか。多くの人がそれを「いいね」と言うのであれば、それはいいのだろうか。多くの場合にはそれはだいたい妥当な判断であることが多い。けれど、それが100%確実にどんな場合でも、必ず正しいかと言えば、そうとは言い切れないような気がする。
 じゃあ、こんな場合はどうか。自分の子どもが初めて親である自分に習ったばかりの平仮名でたどたどしい手紙を書いてくれたとする。この手紙の価値は一体どうか? この場合はこの初めての手紙を価値あるものとして判断する人だけにとって価値があるものだろう。というか、こうした心のこもった手紙に価値だなんだと言う方が了見が狭い。この手紙はお金に換算したらいくらだから、これくらい価値があるんだなどと言うのは興ざめすると思う。
 あぁ、そうだったのか。価値というものは、誰か判定する人がいて、その人にとって価値があるに過ぎないんだな。だから、多くの人にとって価値があるとみなされることはあっても、すべての人に一人漏らさず価値があるとみなされることは無理な話なんだ。
 と神様のことにここで行き着く。何かの価値を本当の意味で判定できるのは神様だけなんだとわたしは今、気が付いたのだ。たしかに、経済的な意味での、つまり換金性があるか否か、という点での価値はもちろんわたしたちの社会にはあるし、必要な価値判断だとは思う。けれど、それがすべてか、と言えば、そうとは言い切れないよ。お金にならなくても価値があるものはたくさんある。そして、その価値の真の意味での正しい判定者は神様だけなんだ。わたしたち人間も価値判断はするけれど、それは絶対的に正しい判断ではない。大方は合っているだろうけれど、絶対的な判断は下せない。何しろ、わたしたちは偏見のもとでしかものを見ることができない存在なのだから。神様だけが、神様だけが偏見を突き抜けて本当の意味での正しい見方(つまり正見)ができる唯一のお方なんだ。
 だから、たとえわたしのブログの記事が人々から見て大して価値があるとはみなされなかったとしても、神様だけはこのわたしの文章の本当の価値を知っていてくださる(もちろん、神様から見ても星の文章が価値がないってこともあるかもしれないけれど)。
 自分の文筆活動は神様もご覧になられているわけだけれど、その本当の価値をわたし以上によく判定してくださる。もちろん、神様から直接「今日の記事あんまり面白くなかったから、以後努力するように」と言われることはないけれど、神様はわたしの文章が価値があるかどうなのか、一番よく分かっていてくださっている。だから、いいじゃないか。人々から評価されなくても。それに神様はわたしが必死になって書いた記事を決してクズ呼ばわりはされないと思う。神様はそんなに冷たくて薄情な方ではない。わたしを含めた全人類をそれはそれはこよなく愛してくださっているお方なのだ。その証拠がイエス・キリストの十字架であって、それだけでもう神様のわたしたちへの愛がハンパないことが分かる。そういう神様だから、きっとわたしの出来の良くないブログ記事もきっと祝福してくださるんじゃないかな。というか、もうすでに祝福してくださっているよね。そのことにわたしが気が付かないでいるだけの話で。そして、神様はわたしのブログの全文章を「よく書けたな」とほめてくださっている。それも最大級のほめ言葉で。
 人からの賞賛というのは不安定だ。してくれたり、してくれなかったりする。でも、神様はいつでもわたしの熱烈な応援団長で、それはそれは激しく鼓舞してくれているんだ。わたしは今までそれに気が付かないで来てしまっていた。でも、神様が応援団長なんだから、もうこわいものはないよね。人々から賞賛されれば嬉しいけれど、それを質的にも超えるレベルの違う賞賛を神様はしてくださっているんだ。一番わたしのことを分かってくれているお方が賞賛してくれているんだ。それ以上に嬉しいことはないと思うな。わたしのことを分かってくれてない人からどれだけたくさん賞賛されたとしても、あまり嬉しくはない。神様は玄人の中の玄人、専門家の中の専門家だと思うな。これ以上のプロフェッショナルはいないというか。達人をはるかに超えている。だって神様なんだから。
 元気が出てきた。神様からもうすでに最大級の賞賛を受けていることに気付けて本当に良かった。でも、人からの賞賛も少しはほしいな。欲張りかな? だめですか?

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