頑張る理由

いろいろエッセイ
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 なぜ人は頑張るのだろう? 何のために頑張るのだろう?
 頑張るといろいろいいことがある。だから頑張る。運動を頑張れば体力や筋力がつくし、勉強を頑張れば知力がアップする。読書を頑張れば豊かな人になれるし、仕事をたくさんすればお金もたくさんもらえる。きっとこれらはいいことなんだ。いいことなんだとわたしは信じてきた。
 でも、それが揺らぎ始めている。わたしの中で震度4くらいの地震が起こっていて、今まで堅固だと思っていた柱が倒れそうになっている。
 頑張ることは必要なことで、頑張らなければならない。そうしなければ、成長は停滞してしまう。現状のままで進歩がなくて、競争に負けてしまう。そうなったら生き残ることができない。豊かな生活を送ることができなくてひもじい思いをすることになる。
 成長、成長、成長。どこまでも限りなく続いていく、続けられていく成長。そうすればきっと明るい未来が待っているよね。それは誰しもが思っていることで、そこに疑いを差し挟むと白い目で見られる。成長して、限界を超えて成長していった先に幸福はあるんだ。成長すればするほど幸せになるんだ。この神話とでも呼ぶべき物語のために身を削って尽くす。それこそがわたしたちの務めである。いや、義務であると言っても差し支えない。
 結論を一言。「ついていけないっす。無理っす」
 何だか遠くばかり見ているような気がする。遠くを見て足下を見ないで、まさに前のめりになっているような。未来、未来、未来。未来のことばかり考えていて、今がないがしろになっていないか。今が踏み台のようなものでしかなくて、幸せになることを先送りしていないか。
 このわたしの考えのどこに見落としや欠陥があるのだろう。自分でもいいところをついているんじゃないかと思う。と言ってもだいたい受け売りだけどね。
 では、成長神話から降りる生き方をするのであれば、毎日何をやったらいいのだろう。パワーアップすることが不毛だと言うのなら、ぼけーっとご飯を食べる時以外している感じになるのかな。まったりしすぎて、逆にそのことによって疲労を覚えるような気だるい感じかな。そこまでいかなくても、ただ自分の好きなことをぼちぼちやって毎日を暮らしている。そんな感じの生き方になってくるだろうと思う。100%成長することを否定するのではなくて、ぼちぼちやれることをやって成長したり、後退したり、気ままに気ままにやっていく。急がずあせらずやっていくとしたら、おそらくそうなる。
 そんなことじゃいい暮らしはできないよ。ハイクラスな生活を送るためには、そんなんじゃだめだ。もっと自分を磨いて、学力を高めて、賢くなってエグゼクティブを目指すんだ。
「はい、はーい、先生ついていけません。それにそんなセレブ生活送れなくたっていいです。細々と暮らしていければいいんです。わたしには必要ありません」
 考えてみるとわたしにとっては広い大きな家は必要ない。豪華な食事を食べたいわけでもない。今の生活におおむね満足している。
 もし仮に、わたしが現状から脱出しようと思って、大学受験をして難関大学に合格したとしよう。そして、いい会社に入れたとしよう。そうなったらきっと少なくとも今の5~6倍のお金を得ることができるだろう。
 しかし、しかしだ。毎日ハードに仕事をすることになるだろうから、今のような時間的な余裕はなくなる。働きづめで仕事中心の日々になる。それでいいのか? わたしは苦悶する。たしかに5~6倍ものお金はほしい。けれど、そのお金を得る代わりに時間を失うのだ。それが大人になるってことだよ、と常識人はわたしに訳知り顔で言うかもしれない。
 はっきり言ってわたしには自分の時間を犠牲にしてまでやりたい仕事がない。もちろん小説を書きたいというのはあるけれど、それはやりたいことの一部であって、小説がすべてではない。甘いのかもしれない。甘いかな? でも、これがわたしの希望することなのだから、これが本音なのだ。
 どちらにしろ、この世のものはいずれは滅びる。そして、天国へと移行する。だから、何か大きな仕事をしてもそれが一体何になろう。それらがむなしいとは言わないし、言えない。けれど、わたしはもっと大きな流れから言っているのだ。言いたいのだ。
 わたしは今、1910年~20年の間に活躍したテノールたちの歌を聴いている。今からもう100年ほど昔に生きた人々の歌声である。それを聞きながら何かしみじみしてしまった。100年後にはわたしも含めて今生きている人たちはみんなお墓の中で骨になってるんだなって。テノール歌手たちはもう死んでいる。そして、わたしたちも100年後には死んでいる。何かしみじみとしてこない? そして、10億年後には人類はまだ滅亡しないでいるのかな? それとも、その前に世の終わりが来ていてすでに最後の審判が行われているのかな?
 もうこうなったら乱暴なようだけれど、こう言うしかない。頑張りたい人は頑張ればいいし、それをしたくない人は適当に生きればいい。まぁ、日本だったらのたれ死ぬことはないから大丈夫でしょう。こういうことを学校の先生たちはもちろん言ってくれなかったけれど、頑張る頑張らないはその人の自由なのだ。頑張りたい人は頑張ってお金をざくざく稼いで、ウハウハ豪華な金遣いの荒い生活を心ゆくまで楽しめばいい。頑張ったんだもん。それを受けることにわたしは異議などない。でも、頑張らない人、頑張りたくない人、頑張れない人を否定しないでほしい。何で頑張らないんだと非国民扱いしないでもらいたい。彼らには彼らのペースがあって、彼らなりに精一杯やっているのだから、どんなに怠けているように見えても咎めないでほしい。それに怠ける、いや、これだと語弊があるな。まったり生きる生き方も一つの生き方だからね。どれが正しくてどれが誤りとかないんだよ。
 じゃあ、わたしはどう生きていくか。ぼちぼちゆるやかに成長していきたい。(結局、成長するんかい。)成長していくことが不毛だと言われても、成長していくことが嬉しいんだ。できなかったことができるようになったり、知らなかったことを知ったり、勉強した内容が自分の中でつながっていくのが楽しいんだ。やりがいがあってこのことに幸せを感じるんだ。だから、成長していくよ。あせらないで自分のペースでゆっくりと。他の誰かと比べたりしないで、昨日のわたしより1ミリでも伸びていたらよしとする。そして、よしよしと自分の成長を喜びたい。
 わたしなりにわたしのペースで急がずあせらず着実に進んでいく。そんな感じでいいんじゃないかな。自分にとってそれでよければいいんだから。
 よし。ぼちぼちいこう。道はひらけるよ。

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