映画「教誨師」の高宮から考えさせられたこと

キリスト教エッセイ
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 見ました。大杉漣主演の映画「教誨師」。本当に面白い(って言っちゃ何だけど)映画だった。今までわたしは映画に頑張って挑戦してきたのだけれど、そのたびにあまり面白いとは思えなくて途中で飽きているという始末だった。でも、この映画は違った。ぶっ続けで約2時間、集中力が途切れることもなく、ラストまで見ることができたからだ。わたしにとってここまでのめり込むことができる映画というのは本当に久しぶりで、実に充実した時を持てたように思う。
 さて、わたしがこの映画の中で一番印象に残って、一番衝撃を受けたのが、青年高宮だった。何か彼があの死刑囚たちの中で一番ヤバかったように思えたのだ。一言で言うなら思想に殉じた青年だろう。彼は間違っている。彼の思想はおかしくて狂っていて問題があって危険思想に絡め取られている。
 けれど、わたしに高宮を非難する資格はあるとしても、批判する資格があるかどうかと言えば怪しくなってくるのである。
 高宮はたしかこんなことを言っていたと思う。「豚や牛や鶏は殺して食べるのに、なぜイルカは殺さないのか?」というような問いである。それに対して、大杉演じる牧師は「イルカは知能が高いから」というように答えた。そうしたら高宮はそれを待ってましたと言わんばかりに、その考えは自分の考えと同じだと言う。つまり、知能の低い人間は殺してもいい。しかし、知能の高い人間は殺してはならないということなのだ。
 高宮とわたしたちの決定的な違い。それはわたしたちが人間と他の生き物との間に線を引くのに対して、高宮は人間の中に知能の高低によってそこに線を引くのである。殺していい、と殺してはならないの境界線を引くのだ。
 わたしたちは簡単に何の躊躇もなく「人」という言葉を使う。けれど、この「人」、つまり人間とは一体何なのか。その始まりと終わりは法律的にはたしかに決められている。
 わたしは一時期、妊娠中絶のことについて学んでいた。そして、衝撃的なことを知る。妊娠21週だったか22週だったか、正確なところは覚えていないのだけれど、「人」かどうかはその期間を過ぎているかどうかということによって決まるのだ。つまりその決められた日を一日でも過ぎてしまえば中絶はできなくなるのである。つまり、それ以後であれば立派な人になるのだから、中絶することは殺人になるのだ。だから、その決められた日の一日前であればそれは人ではないのだから、中絶して殺しても何も問題はないのだ。それを知った時、何かとてもこわいことを知ってしまったような気がした。
 線を引くこと。これは生きていくためには必要なことだ。線を引かなければ生きていくことはできない。わたしたちは日々、他の生き物の命をいただいている。動物しかり、植物しかり。言うならば、わたしたちは殺さなければ生きて行けないのだ。だから、殺していいものといけないものを区別しなければならない。いや、区別しなければ生きていくことができないのである。何かを食べて摂取するためには、それを殺してもいいものだと考える必要がある。
 わたしたちはその生き物を殺してもいいものかどうか考える時に、基準を持ち出して判定する。人間か、否か。知能が高いか、低いか。いろいろな基準が人それぞれあることだろうと思う。その中で高宮は知能の高低を絶対的な基準として持ち出したのだ。人間か、否か、ではなく、知能が高いか、それとも低いか、と。
 基準はいろいろ人それぞれある。けれど、どれも恣意的だ。人間中心の人間至上主義においては、人間か否かというのが最も重要になってくるだろう。それと同じように、知能の高さに価値を置く社会では知能至上主義になることは間違いない。もしも恣意的でない基準があるとしたら宗教的な話になってくるが全知全能の神による基準くらいなものだろう。
 映画の中では言及されなかったが、神様がイスラエルに授けられた十戒では「汝殺すなかれ」がある。そして、神様が授けてくださった律法では、人を殺した者は殺されなければならないとある。神様が授けた掟では何も高宮が言うような知能の高低などは規定に含まれていない。神様は人間を愛されているお方だ。
 わたしがもし高宮と対峙したらと考えてみると、とてもこわくて大杉演じる牧師が逃げたいと思ったように、わたしもそう思ってしまうかもしれない。でも、対話をしてみたらと少しばかり無理をして仮想対話をしてみる。とするなら、高宮が「なぜ牛や豚は殺すのにイルカは殺さないのか」と問う時、何と答えたらいいものなのだろうか。高宮の問いをさらに突き詰めるなら、おそらくこうなる。「なぜ牛や豚を殺すように、知能の低い人間を殺さないのか」。核心はここである。わたしはおそらくこう答える。「神様が牛や豚は殺してもいいけれど、人間は殺してはならないとわたしたちに命じられたからだ。」何か劇中の牧師よりも牧師らしいこと言えてません? などと自惚れながらもわたしは高宮にこう答えるしかない。頭のいい高宮はおそらくこう切り返してくる。「神が命じたことになぜ従わなければならないの? そんなに神様って偉いの? お前はボタンを押されて商品を出す自販機と一緒だよ。何でもかんでも神様の言うとおりでそんなんで生きてて楽しいの?」わたしは答える。「それがキリスト者なんです。わたしは神の奴隷です。」高宮がさらにこう返してくる。「じゃあ、神様が人を殺せって言ったら殺すの?」さらにわたしはこう答える。「殺すかもしれません。いや、殺すことでしょう。それが御心ならば従わねばならないからです。でも、神様はそんなことは決してお命じにはなりません。むしろ神様は互いに愛し合いなさい、とおっしゃるような方です。でも、例外はありました。それはアブラハムが待望の独り子のイサクを焼き尽くす捧げ物として捧げよと神から命じられた出来事です。でも、アブラハムが刃物でイサクを殺そうとした時、神様はその直前に止めてくださったのです。」「じゃあ、神様が殺せって言ったら殺すわけだ。」「でも、そんなことはよほどの理由がない限り神様はお命じにはなられません。」
 高宮の論理で行くと、

 知能が低い→知能が高い者が世話をしなければならない→それは金と時間と労力のムダ→ムダなものはなくした方がいい→知能が低い者は殺した方がいい

 となることだろう。わたしが思うのは高宮の考えの視野が狭いということだ。高宮は知能至上主義者で、知能が高いことが価値があることだと思っている。わたしも知能の高さについての価値を認めている人間なのだが、基準がそれだけになってしまう時、窒息するような世界が展開される。
 わたしが小中学校同じだったT君という人物がいる。この人は勉強がとにかく出来ない。運動も出来ない。ルックスもいい方ではない。それでいつも鼻をたらしている。つまり、彼は世間一般の基準から言うと、ことごとく出来ない駄目な人だったのだ。でも、T君。誰よりも優しかった。本当に心が美しい優しい思いやりのある人だったのだ。
 どんなに駄目なように見えるどうしようもない人であっても、一片の魅力は必ず誰しも持っているものなのだ。何も魅力のない人なんているのだろうか。わたしはいないと思う。みんな何かしらいい所があり、長所があり、魅力がある。それが微々たるものでしかないとしても、ほんの少しであってもわずかであってもあるとわたしは思うのだ。
 それを高宮は「知能が低いから不要」の一言で一蹴しようとする。そんなもんじゃないだろ。そんなに人間、単純なものじゃないだろ。そう言うと高宮はおそらくこう反論してくる。「だって金がかかるじゃん。」劇中ではふれられなかったけれども、高宮は金銭的に困った経験があったのではないだろうか。だから、「金がかかる」とか言うのだと思う。これはまさに弱い者がさらに弱い者を叩く構図ではないか。つまり、わたしが思うにこの社会のシステムに問題があるのだ。弱者がより弱い者を金がかかるからと殺す。まだしも弱い者が強い者を叩くなら何も問題はない。不正を働いて富を得ている者を叩くのは当然のことだ。けれど、最低限の保障しか受けていないような最底辺の弱者を似たような境遇の者が叩くというのは悲しい話ではないかとわたしは思う。
 高宮は知能の高低で人間の価値を判断する。もちろん高宮も知能のどの程度のところかには線を引いている。そして、自分はその線を軽く余裕で超えたところにいて、超えることのできない者たちを殺す権利があると思っている。だが、その線がもっと上がってきたらどうなるのだろうか。そうならない保証はどこにもない。何か知能テストのようなものをやって、何点以下は死刑ということなら、その基準の点数が上がれば上がるほど生き延びることは難しくなってくる。それはまさに死のテストである。そのテストで何点を取るかによって生きていられるかどうかが決まってしまうのだから、これほど恐ろしい試験はないだろう。それでこのテストに合格することがかなり難しい場合、あの頭のいい高宮も落ちてしまうかもしれないのだ。そうなったら高宮はどうするのだろうか。つまり、死刑なのである。自分は知能が低くない。知能が低いあいつらとは違うんだ、と思えていて実際それが証明できているうちはいい。けれども、何かのはずみでその基準が上がったりして自分がそれに達することが出来なかったら……。そういった想像力が高宮には欠けていたように思うのだ。自分がもし排除されて殺される側になったとしたら。それでもわたしは構わない、と言う人にはわたしは何もかける言葉がないのだが。
 ネタバレになるが最後、高宮の死刑が執行されたのだった。高宮が恐怖にふるえながら大杉演じる牧師に抱きついたのがとても痛々しく今でも脳裏に焼き付いている。
 そしてわたしはとてもシンプルな結論にたどり着いた。自分がされて嫌なことは他の人にもしてはいけないな、と。むしろ自分がされて嬉しいことを他の人にもしよう、と思ったのだった。基本的にみんな死にたくない。殺されたくなくて生きていたいと思っている。だから、みんなで生きていこう。神様の御心に従って生きていこう。
 高宮は愛された経験がなかったのではないかと思う。幸福を感じたことがなかったんじゃないかと劇中の台詞を聞く限りわたしは思う。イエスさまが「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」といったことをおっしゃられていた。つまりはそういうことなんじゃないか。愛し合うのだ。もちろん、愛し合うことができなかったり難しい人間関係もあることだろう。でも、イエスさまのこの言葉が放つオーラに従って、その方向性で歩んでいく時、高宮のような悲惨な結末になることは避けられるんじゃないか。
 最後の最後で大杉演じる牧師は高宮の友になれたんじゃないかと思う。最後の最後で友になれたのだ。そして、何よりもイエスさまはわたしたちの友だ。世界のすべての人が見捨ててもイエスさまだけは決して見捨てられない。いつまでもいつまでも永遠に友でいてくださる。高宮にイエスさまの声が届いていたらと悔やまれてならないのだ。本当、そう思う。イエスさまの愛にふれる時、人は変えられる。高宮が教会へもしも行っていたら、「こいつら頭おかしいんじゃないか。平和ボケもいい加減にしてくれよ。」と辛辣なことを言っていたかもしれない。でも、高宮にとって一番必要だったのは、イエスさまを中心にして集っている教会の人々ではなかっただろうか。だから、高宮に一番必要だったのは愛なのだ。孤独感や絶望感を癒してくれる愛だったのだ。高宮は孤独だった。そして人生に見切りをつけていた。何よりも愛に飢えていたのだ。
 高宮は死刑台に上り帰らぬ人となった。でも、神様を信じなかった高宮だけれども、イエスさまは彼にずっとついてくださっている。だから、わたしは安心していられる。イエスさまは決して高宮を悪いようにはなさらない。じゃあ、高宮に殺された人間の怨恨はどうなるんだ、と言われるかもしれない。これは楽観論かもしれない。綺麗事かもしれない。不適切で甘い考えなのかもしれない。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』でイワンがわたしが言うようなことに対して攻撃したのだが、それでもわたしはすべての人が救われるのではないかと思う。そして、みんな天国で笑い合っていると思う。もちろんわたしは神様ではないから、神様が実際にどうなさるのか知らないし分からない。でも、神様だったらそうしてくださるような気がしてならないのだ。聖書的には誤りかもしれないけれど、わたしの希望としてはそう願っている。
 映画「教誨師」の高宮の言葉からいろいろなことを考えさせられた実り多き時間だった。神に感謝します。



《追記:2022年12月27日》
 この記事を読んでくださってありがとうございます。長文で長く感じられたことだろうと思います。この映画「教誨師」の感想を綴った記事は多くの方に読んでいただけておりまして、感謝、感謝であります。
 さて、この記事に1件のコメントが寄せられまして、それに対して一キリスト教徒として僭越ながらも答えなければと思いこうして筆(わたしの場合、Pomeraですけど)を取りました次第です。以下はそのコメントへの拙いお返事です。


「神様は人殺しなのか?」

 神様は愛のお方。優しくて慈悲深くてまさに慈しみそのものであられるお方。
 教会ではそう教えられる。そして、その教えを受けて信徒たちは疑うことなくそれを信じている。そこには疑う余地など何もなくただ純粋に神様はそういうお方だという思いがある。それが信仰だとわたしも思う。
 けれど、この世を見渡してみれば不正が横行し、邪悪な行いが跋扈(ばっこ)し、カネで好き放題やっている人がいて、反社会的な集団だってしっかりと存在している。
 が、それはまだいい。良くないかもしれないけれどまだいい。それらは人間が悪いことをしているという話であって、最悪の場合、人が人を殺すという話なのだ。一番問題なのは、そうした人間がなす悪ではなくて、神様が人間を殺しているのではないかという疑いなのだ。いや、疑いなんてものではない。現に神様は平気で人を殺しているではないか。その証拠に地震などの災害で多くの人を何万人規模で平気で殺すではないか。災害? もっと多くの人が死んでいることがある。病である。神様はおびただしい人の群を病気にさせて、そして弄んでこれまた平気で殺す。人間がやっていること、やったことで人が死ぬなら人間に責任がある。けれど、明らかに神様がやっているようにしか見えないことについてはどうそれをくぐり抜けたらいいのだろう?
 そういうわけで神様は愛のお方ではない。むしろ邪悪で悪の親玉で、まさに黒幕的な悪いやつ。自分で万物を勝手に創って、勝手にこれまた平気で叩き壊してしまう。自分で命を生み出して、そうかと思うとまた気の向くままに命を平気で奪う。そんな神様、様をつけるのが嫌になって「神」と呼び捨てしたくなる。そんな自己中でエゴイスティックで傍若無人で情け容赦ない冷酷な神。
 極めつけは旧約聖書を読んでもらえばわかるけれど、申命記を読んでみればいい。この物語にはイスラエルの民の残虐な侵略がこれでもかというくらいに書かれている。そして、それをやれと言ったのは何を隠そう神様なのだ。異民族を根絶やしにしろと言われる神様。根絶やしとは殺して一人も残さないこと。生存者を残さないこと。すべて剣にかけて殺すのだ。女、子どもも容赦しない。一人も残してはならない。根絶やしにするのだ。そう神様は言われる。
 よく子どもに聖書を読ませる(それも旧約も)大人がいるけれど、旧約聖書なんて有害指定図書だと思う。レイプあり、殺戮あり、虐殺あり、何でもありの大スペクタクルでこんなもん子どもに読ませていいんかい、とわたしなどは思ってしまう。だから、キリスト教系の学校(特に女子校)では聖書の時間があっても旧約聖書などはほとんど読まない。ただ新約の愛の神様を礼賛するだけで、旧約の熱情の神についてはノータッチらしいのだ。
 と、ここまで神様の悪口をまくし立ててきた。が、わたしはこれに全面的に同意することができない。そのことについてここから書いていこうと思う。反撃開始である(別にやっつけるわけではないけれど)。
 以上の批判はとても核心に迫っている。クリスチャンが一番突っ込まれて痛いところだからだ。急所と言ってもいい。で、ここからどう切り返すか。
 そもそも、そのような論調を貫くのであれば、人が誰一人として死なない世界でなければならなくなる。わたしたちの住んでいるこの世界は人が死ぬ世界である。日常的に多くの人が理由は異なれど死んでいる。瞬間、瞬間ごとに地球規模で多くの人が死んでいる。神様への批判をなくす、消滅させるためには一人も死なない、死のない世界が実現されなければならない。となるとどうなるか? もう明日にでも終末、世の終わりにしてもらって、みんなで天国でほわほわ~、幸せ~にしなければならない。この世界がこの形であり続ける限り、死ぬ人ならびに不幸な人をゼロにすることはできない。だから、もうすぐにでも天国を到来させなければならない。けれども、神様はなぜか終末にしてくださらない。イエスさまの時代から2000年あまりも経っているのに未だに終末は来ていなくて、この世は続いている。それはなぜか? 理由は神様だけがご存知だろう。理由は分からないけれど、それが神様の考えていることなのだ。そこに悪意を感じるのだとしたら、それはもっともな意見であり、批判であると思う。苦しみのある世界を存続させていて、終わらせようとしない神様への不満。これはもっともだ。わたしも同意する。けれど、どんなにわたしやあなたがワーワー言っても、終末は来ない。理由は分からない。でも、分かることはそれが御心なんじゃないかってこと。そこに悪意を感じる。神様は悪い奴だ。でも、終末をどうするかっていうのは神様の特権行為なんじゃないですか、ともわたしは思う。となるとわたしたちには批判する権利がないから黙っていろ、ということか? わたしにはそう批判してくる人たちがまるで自分が神様であるかのように、いわば自分が神様だったらこうするのに、という発想で考えてしまっているように思えて仕方がないのだ。たしかに批判者の言うことには一本筋が通っている。しかし、わたしもあなたも神様ではない、と月並みなことを言うしかない。
 聖書には「主は与え、主は奪う」という御言葉がある。神様に奪うことをゼロにしろ、人の命を誰一人であっても奪うな、と言うのであればやはりそれは前述の死のない世界にしない限りこの批判を払いのけることはできないだろう。
 神様が病によって人の命を奪われたり、震災によって死者を出されたり、はたまた申命記で「根絶やしにせよ」と命じられたり、もっと直接的に神様に逆らったということで殺したり(出エジプトの出来事の中でたびたび起こったと思う)、もっと根源的なことを言うのであれば命は神様が司っているものだから死ぬということは神様に命を取り上げられるということ。
 こうした事柄を考えていくと、どうして神様は死のある世界を創造されて、しかも悪のある世界を創られたのか? そして、さらにはなぜご自身で理不尽なことをお命じになられるのか? もっと言うなら、なぜ最初から天国のような楽園に善人だけ造ることをされなかったのか? そうすればハッピーだったのに。
 どうしてもこうした疑問にぶつからざるを得なくなる。どうして? なんで? うーん。でも、考えても答えは出ない。
 で、そういう時に、クリスチャンは、キリスト教徒はどう考えるのか。答えるのか。と言うと、煙に巻くようなことを言うのだ。それはないだろ、と思われることだろう。はぐらかしているだけだろ。逃げているだけだろ。ごまかしているだけだろ。しかし、聡明なクリスチャンの先輩方はここで煙に巻く。ルターだって神秘なんだとか、秘儀なんだとか言って明言を避けている。何だ、期待はずれもいい加減にしてくれ。おそらくここまで読んでこられたあなたは怒りにうち震えていることだろう。
 わたしもルターと同じく、これは神秘と言ってもいいような神の領域だと思う。人間がああでもない、こうでもないと考えた果てにたどり着く場所。それが分からない。けれども神様には何か深いお考えがあるのだろう、という結論なのだ。神様は善であられるのに、なぜこの世には死があるのか。もっと言うならなぜ悪があるのか(悪には病や震災などの自然悪も含まれる)。この疑問に答えることは誰にもできない。牧師にも神父にも答えられない。もうすでに論理的には決裂していて明らかに矛盾していて、それを覆すには特殊な方法を使うしかないのだ。が、その特殊な方法はわたしには何だかはぐらかされているようにしか思えなくて、真っ向からは答えていない(悪はそもそも存在しないんだとかという考え)。真っ向から答えようとする時、「分からない。しかし神様の深い思し召しがある」としか言えないのだ。人間に分かること。それは分からないということ。
 だったらどうするのか? もうこうなったら神様に聞くしかない、というわけでわたし個人の結論としては終末の最後の審判の時にイエス様に裁きの座で質問しようと思っているんだ。「なぜ悪があったんですか?」って。
 最初の問いに戻ろう。「神様は人殺しなのか?」というシンプルな問いにだ。神様がこの地球上の命を総括して治められているとしたら、神様は人殺しだということになるだろう。命をしっかりと与えては奪うような司ることをやっておられるのだから。神様が命を奪われることを粗野な言葉で言い表すなら、それはまさしく人殺しなのだろう。そして、積極的に命を奪おうとされることもまさしく人殺しなのだろう。
 が、ここまで書いてきて神様は人間の脳味噌ではかれないほどの何か、人間の思考を超えた次元の違う思考をなさるお方なのではないか、という気がしてきた。
 旧約の神様はハチャメチャでとてもわたしは好きになれないなと常々思ってきた。しかし、その傍若無人な神様のやること、なすことにも深い意味があるのではないか。あったのではないかという気がしてならないのだ。もちろん、現代の人権感覚からしたら失格だろう。
 この旧約の熱情の神と新約の愛の神にどう整合性を持たせるか。マルキオンのように「この2つの神様は別の神様なんだ」と言ってしまった人もいた。でも、そう言わずにキリスト教の伝統に踏みとどまるのであれば、いや、伝統云々ではなくて信仰を持ち続けるためにはやっぱり神様は愛なんだと信じるしかないのだ。何よりもイエスさまは神様であり、その人であり神でもあるイエスさまが説かれた神様が本当の神様だということを信じるのであれば、それはまさしく愛の神様なのだと思う。神様であるイエスさまが「神はこういうお方なんです」って説明してくださっているのだから、それが真理であり真実なのだ。
 命を与え、そして奪われる神様。その神様のみ心に思いをなす時、敬虔さが生まれてくる。もちろん、命を奪われるのは楽しいことではない。しかし、そこに深い思し召しがある。そう思っているからこそ、そう信じているからこそ、クリスチャンはへこたれることなく、へし折れることもなく今日も教会生活ならびに信仰生活を淡々と送っているし、送ることができているのだ。あまりの拍子抜けする答えにあっけに取られたかもしれないけれど、この文章で(とは言ってもこれは星の個人的意見であり信条でしかない)一キリスト教徒の考えを分かってもらうことはできたかと思う。

 イエスさま、父なる神様、どうか終末にわたしたちに真実をはっきりと教えてください。主イエスのみ名によって。アーメン。

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