ありのままでいいじゃないか

いろいろエッセイ
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 今、バッハのオルガン曲を聞きながら、この記事を書いている。自分で言うのも何だけど、ここ数日わたしはよく頑張ったと思う。これを読んでくださっているあなたもきっと頑張ってきたに違いない。だから、少なくともこの文章を読んでいる間くらいは心を落ち着かせてリラックスしてもらえたらと思う。
 そういうわけで、頑張れ、頑張れみたいなことは言わない。ただ、お互いよくやってるよね、と互いを労えたらと思うのだ。
 みんな頑張っている。スーパーへ行けば新商品が所狭しと並べられている。それを開発した人は頑張ってそれを成し遂げたのだろう。パソコンだって同じ金額で買えるスペックが年々、格段に向上している。
 このこと自体は人々の生活を豊かにして幸せを向上させているのだから、何も問題をはらんでいないように見える。でも、この進歩主義と言うか、向上主義は問題を抱えているのである。それはいつまで成長し続けられるのか、というシンプルな疑問だ。いつかは行き詰まるんじゃないか。
 だから、成長、向上しなくてもやっていけるような道を模索していかなければならない。
 というようなことを書きながらもわたしは成長したいと思う。思ってしまう。それ自体悪いことなのだろうか? 人間として罪なのだろうか? より良く、より強く、より美しく、より快適に、より豊かに。どこまでも、どこまでも向上していこうとする。
 もしかしたら、これは罪なのかもしれない。現状をよしとしない、人間の力に依り頼もうとする罪なのかもしれない。
 わたしが願うこと。頭が良くなりたい。知的に賢くなりたい。いい文章をたくさん書けるようになりたい。勉強ができるようになりたい。美しい肉体を手に入れたい。もっと容姿、容貌を向上させたい。料理が上手になりたい。モテたい。・・・などなど。
 では逆に問うけれども、どうなったら満足なんだ? どうなったらわたしは満足するんだ、できるんだ?
 まず頭が良くなりたい。東大、いやいやオックスフォード、ケンブリッジを主席で卒業できるようになったら。いやいや、歴史上に名前を残せるくらいにならなければ満足できない。アインシュタインを超えるくらいの賢さがほしいな。
 次にいい文章を書けるようになりたい。芥川賞はおろか、ノーベル文学賞を取れるくらいいい文章を書けるようになりたい。つまり、人類の文学の歴史に名を残すような偉人になりたい。
 美しい肉体を手に入れたい。世界一美しい肉体でなければ嫌だ。そんな肉体になりたい。世界的モデルも嫉妬するくらいの美しい体。そんな体を手に入れたい。
 料理が上手になりたい。ミシュランの三つ星料理店のシェフを超えるくらいの料理を作りたい。料理の鉄人と呼ばれて歴史に名を残したい。
 で、「今のあなたは?」と聞かれてわたしは言葉を失うのだが、もうお気付きだろう。これをすべて成し遂げたら化け物なのである。そんなの絶対に無理だろう。
 もしかしたら何千年先のことか分からないけれど、偉人の能力を手軽に誰でも道具として使える日がやってくるかもしれない。知的な活動をする時には、偉大な天才の頭脳もしくは能力をそっくりそのまま使うことが出来、すぐに誰にでも天才になれる。料理だって、スポーツだって、何だってあっという間に天才と同じ動きができる。だから、練習とか鍛錬とか訓練とか、そういう面倒なものは必要ない。そのツールさえあれば、もうあなたは天才になれるのだ。
 そうなったらなったで優れているということが何も価値を持たない時代がやってくるのかもしれない。逆に障害や病などがトレンドになって、どれだけそれらによって個性的になれるかということを、つまりはダメさ加減を競い合うような時代がやってくるのかもしれない。でも、その時にはすべてをコントロールできるようになっているだろうから、いかにツールを使わないかといったことが流行るのかもしれない。
 良くなることも、悪くなることもすべてが人間の統制下にある科学が発達した遠い未来。そうなったら、もう老いとか老化とか寿命は克服されていて、不老長寿になっているのかもしれない。だから、年齢を聞かれて、「わたしは1万3423歳。」とか答え合っているのかもしれないのだ。
 そうなったら、もう何かができることに価値はないだろう。そして、できないことにも価値はないだろう。むしろ、ありのままの自然の姿が尊ばれるのではないかとわたしは想像する。
 時代を戻して現代に戻ってみる。考えてみると、不完全なのがわたしらしさではないだろうか。完全になったらわたしらしさなんて消滅してしまう。画一的になっていくだけだ。みんな同じスーパーマンになって完結してしまうつまらない世界がやってくる。
 けれど、一方でできるようになりたいとも思う。優れていることはいいことであり、素晴らしいことだということは今の時代においてはそうだろう? うーん、きわどい。
 では、こう考えてみてはどうだろうか。できないということが個性であり味ではないだろうか、ということだ。欠けていることがかえって味わい深いような気がするのだ。
 何でもできるということは逆に言えば、できないということができないのだ。できないフリをすることはできるけれども、できないということができないのだ。だから、できない人の気持ちを理解することが難しい。
 今の世の中は何かができるよりもできない人の方が断然多い。いや、圧倒的に多い。だから、できない人は多くのできない人の気持ちを察することが出来る。自分もできないのだから。
 できないこと。それは必ずしも否定的なことではなく、それがかえって愛嬌として魅力的に映ることもある。何でもできる人というのは近寄り難かったりする。それよりも、できないことが多い人の方がかえって味わいがあり、多くの人から愛されるのではないか。映画でダメな主人公ほど人気を博すのはよくある話ではないか。
 だから、ありのままでいいじゃないか。できるようになりたい、優れていたいという気持ちもあるだろうけれど、まずありのままのあなたを自分で認めてあげよう。わたしも自分を自分自身で認めてあげようと思う。できないところ、劣っているところ、ダメなところ、それら全部ひっくるめてわたしなのだから。未来の秘密道具でスーパーマンになったわたしはわたしであるけれども、もはやわたしではない。できないこと、できること。それらが複雑に織り交ぜられてわたしを形作っているからだ。
 ブルーハーツも言っている。「ありのままでいいじゃないか。」と。

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