わたしが憧れるのはイケイケじいさんだ。イケイケじいさんってイケてるじいさんのこと?
そう。わたしはそんな老人になりたいと思っている。老人という言葉を使うとかしこまった感じがするから、老人ではなくて「じいさん」という言葉がぴったりくる。
イケイケじいさんはわたしのイメージではチャラいじいさんではない。若い女の子をたらし込んで、不純異性交遊に走りまくるようなそんなじいさんではない。いい意味でイケているじいさんなのだ。
イケイケじいさんは何よりも周りからの信頼が絶大で、人々から愛されていて、ちょっとしたこの近辺での人気者。頭は冴えていて人生相談をされようものなら、老年の研ぎ澄まされた知恵をもとにして名回答を繰り出す。もちろん体は程良く筋肉質でスマートで介護とは無縁のような頑健さで、とにかくダンディー。わたしはそんなじいさんになれたらと思うのだ。
なぜこんなことを書くのかと言えば、わたし自身年齢を重ねていった先のことを考えているからだ。だから、イケイケじいさんになりたいと書いたけれど、その前にイケてるおじさんになりたい。
うーん、どうしたらとりあえずの目下の目標としてイケてるおじさんになれるのだろうか。そして、イケてるを通り越してイケイケのじいさんにどうしたらなれるのだろうか。
だが、ここで一つの大きな疑問が。果たしてイケてる必要があるのだろうか、と。だってイケてる方がいいんだもん。イケてる方がイケてないよりも絶対にいいに決まってるんだもん。そんな幼稚園児のような思考を一方ではしながらもわたしは拙い思索を開始した。
「どんな人になりたい?」「あなたはどんな人になりたいの?」と聞かれてこうなりたい、ああなりたいと答えるわけだが、何か方向性を間違えているような気がしてきた。自分が自己実現を果たしてああなりたいこうなりたいと考えるのはたしかに結構だが、最終的に高みを目指していくとしたら、これではお粗末なように思えるのだ。何か上っ面を滑っているだけのような、本当の意味で大人になりきれていない、成熟していないようなそんな気がしてくるのだ。
これもわたしがなりたい自己実現の姿なのかもしれないけれど、自分がなりたいじゃなくて神様が何を望んでおられるかを考える段階に来ているように思うのである。
神に従う。それすらも、所詮は自己実現が変形したものでしかないだろ、とツッコんでくる人がいるかもしれない。でも、わたしは神に従うことに本当の意味での人間の成熟した姿を見るように思うのである。
自己実現を望んでいる段階はまだまだ青いのかもしれない。わたしは青かった。自分がどうなりたいかということばかりを考えて、神様がわたしに何を望んでおられるかという視点を省みることがなかったのである。
自分が望んでいることではなく、神様がわたしに望んでいることを考える。まさに180度の視点の転換である。自分を主体にするのではなく、神様を主体にして考える。もちろんその神様のみ心に沿う生き方を考えるにしても、自分の頭で考えているだろ、とまたしてもツッコミを入れてくる輩はいるだろうが、そのことはあまり気にしないようにしよう。
神様のみ心を感じ取る。察する。神様からのメッセージを聞き取ろうと耳を澄ませる。
そういう視点から自分自身を振り返ってみると、いかに自分中心でこれまで生きてきたことだろう。自分が主役で、自分が主人公で、自分が、この自分が何をやりたいのか。何をしたいのか。どうなりたいのか。そんなことばかり考えてきたような気がする。神様の声をろくに聞こうともせずに、自分の思いに従って生きてきたような気がする。完全に自己実現という呪縛に絡め取られていたわたしなのであった。自己実現というもっともらしいものにわたしは自分の身を委ねていた。委ねきって省みることさえしなかったのである。
それが今こうして反省している。なぜこんな反省が生まれているのだろうか。これはまさに神様がわたしに働いてくださっているからに他ならないからではないだろうか。まさに聖霊の働きなのである。
おそらくこれを執筆しているわたしは今、聖霊の働きによって包まれ変えられつつあるように思う。イエスさまを信じることそれ自体が聖霊の働きなのであれば、これも聖霊の働きであることは間違いないことだろう。
自分中心の生き方から神様中心の生き方へのシフト。まさに変革。とは言えどもあれをやりたい、これをやりたいというのはつきものであって、その思いを完全に除外することはできない。だから、わたしにできることは何かをやろうとした時、やろうとする時に、「神様、これをやるべきでしょうか? それともやらない方がいいのでしょうか?」と祈りを通して確認する作業をすることである。神様の声に耳を澄ませる、神の声を聞いていく生き方である。
そういう観点からわたしの今までの行動を振り返ると、神様を悲しませるような自分勝手で利己的な醜悪である行動が存分に含まれていたように思う。
冒頭では「イケイケじいさん」になりたいなどと書いたわたしではあるが、それは書いているうちにどこかへ行ってしまった。そんなイケイケじいさんにならなくてもいい。なれなくてもいい。それよりも神様に従った生き方をしていきたい。神様が望まれるような生き方をしていきたい。これも自己実現の域を脱していないと批判されかねないが、それでも神様中心に生きていくという姿勢にわたしは今、強い憧れを抱いているのだ。
自分がどうしたいか、ではなく、神様がどうされたいとわたしに望んでおられるか。自分中心から神中心へ。
たしかにわたしにはこうしたい、ああしたいという望みがあることはある。そのこと自体を否定するのではない。ただ、それが神様のみ心に適わないようであればやめる。そして、自分が望んでいないとしても神様が望んでおられるのであればそれに適うように努力する。そんな神様中心の生き方を実際にできるかどうか覚束無い感はあるが、それでもそうやっていけたらいいなと思う。
そうだ。イケイケじいさんではなく、「神の人」になりたい。おそらく神様もわたしにそれを望んでおられるのではないか。
自己実現を卒業して、神様のみ心に生きる。まるで牧師や神父になるかのような話に近付いてきているのだが、わたしはこの記事を書きながら神のメッセージを感じているのだ。これこそがもしかしたら召命なのかもしれない。
聖霊の働きに感謝いたします。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。