みんながしあわせな世界について

キリスト教エッセイ
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 みんながしあわせな世界。そんな世界あるのか。
 もしも、世界のすべてを神様のように見ることができたとしたら、それはどんな光景なのだろうか。
 わたしは有限な一人の人間でしかない。だから、見ることができるものも有限だし、見ることができたとしてもほんの僅かなものしか見ることができない。
 神様スコープ。神の目。神様は一体どんな風にご覧になられているのだろう。とても醜い目を覆いたくなるような惨状を目の当たりにされているのだろうか。わからない。わたしは神様ではないのだから、神の視界を想像することしかできない。
 神様は人々が幸福に愛し合って生きている様子をご覧になられているだろうが、同時に憎み合い殺し合っている人間の醜い姿もご覧になられていることだろう。それらを総合的に眺めると、どんな感じなのだろう。まるで綺麗な水の中に一滴のインクが落ちて、水全体が黒くなってしまうように、不幸が幸福を消し去ってしまうのだろうか。
 みんながしあわせな世界。20代前半頃のわたしはそんな美しい世界に憧れていた。そして、そうした世界を実現させなければならないと強く思っていた。
 でも、そんな世界、原理的に不可能だ。数年後に気が付いた。
 わたしが思い描いていた世界では、虫も鳥も動物も微生物に至るまで誰も死なないし、殺されることもない。まさに誰も死なない世界。まるで天国を具現化したような、そんな世界なのだった。
 でも、わたしたち肉体を持つ生物は食べてエネルギーを得なければならない。生きること。それは食べることであって、同時に殺すことなのである。
 つまり、わたしは完全に清くなりたかったのだ。何者も殺さず、手を汚さない。そんな自分でありたかった。しかし、そんなこと無理だ。わたしは途方に暮れた。何も殺さないでいるためには自分が餓死する以外に選択肢はない。どうしたものか。美しい理念に生きようとしていたわたしは猛烈な空腹に襲われていた。ひもじい。苦しい。体に力が入らない。わたしが生きるためには、生き続けるためには殺さなければならない。
 そこで卑怯なわたしはどんな理屈に逃げ込んだかと言えば、「みんな食べてるじゃん」だった。「みんな殺してるんだからいいんじゃないの?」という至極当たり前なそんな事実に逃避したのだった。
 食物を得ないで生きるということが非現実的であり不可能なことは認めざるを得ない。それなら、生存のための殺生は仕方ないとしても、人間同士が殺し合うことは避けなければならないのではないか。もっともな議論である。でも、そんなことを完全にできるのだろうか。その方向で行くことはできてもやはり犠牲者は出てしまうのではないか。人間同士の争いをゼロにすることはできない。ゼロに近づけることはできるかもしれないが。だったら、建設的な話としてゼロに近付ける方向でやっていったらいいのではないか。
 現実的な話になってきたが、わたしの所感としては生存のための殺生が仕方ないというところにまずひっかかってしまう。わたしが生きるためにどれだけの生き物の命を奪っていることか。わたしは屍の山の上に立っているのだ。
 わたしが言葉を失ってしまう人はおそらくこんなことを言う。「わたしは他の生き物を殺してまで生きていたくはない」と。鋭い。あまりにも研ぎ澄まされていて、わたしには返す言葉がない。わたしが「どんな生き物だってみんな殺して食べてるんだから」と言おうものなら、「いいかげんで不純だ」と一喝されてしまうことだろう。
 なぜわたしたちは殺さないと生きていけないように神様に造られたのだろうか。わからない。神様が人間を不殺生でも生きながらえるように創造してくだされば良かったのに、と思ってしまう。肉体を持つ者の宿命とでも言うべきものである。
 と言うよりももっと手っ取り早い方法として、なぜ最初から神様は天国にしなかったのだろう。そうすれば生存を目的としたものも含めて殺生などする必要がなかったのに。ただ、浄福な世界がそこにある。それで終わっていたのに。なぜ殺し合いのある世界を神様は創造なさったのだろう。これは神のミスなのか。いやはや、こんな分かり切ったミスは神様はなされないはずだ。だとしたら、確信犯的に殺し合いのある世界を創造されたのか。少なくとも神が全能であることを認める時、こうなることは事前に分かっておられたはずなのである。だとしたら、なぜ? 議論は錯綜して迷宮へと入り込んでいく。神義論的に思考していくとここで行き詰まる。わからない。とにかくわからない。
 みんながしあわせな世界。そんな世界、無理である。原理的に不可能なのである。だとしたら、わたしたちはどうしたらいいのか。
 わたしたちは完全になることはできない。この世界には必ず綻びが生じる。それは仕方がないことだと割り切って生きていくしかない。「そんなの耐えられない」と潔癖性な人は攻撃してくるだろうが、そうであろうがなかろうがわたしたちは生きていかなければならない。野菜を食べるために植物を殺し、肉を食べるために家畜を殺し、水を飲むために微生物を殺菌して死滅させる。殺しながら、いや、殺すことによってわたしたちは命をつないでいく。神様だってきっと、殺生をしなければ生きられないようにわたしたちを設計されたのだから、そこには何らかの意味があるはずだ。きっと意味はある。そう信じる時にわたしたちは生きていくことができるのではないだろうか。たとえ、わたしの手が血にまみれなければならないとしても、それでもわたしは生きていくのである。生きるとは綺麗事ではなくて、そういうことではないのか。わたしたちは「みんながしあわせな世界」を夢想することから卒業しなければならない。現実的に、現実的に。現実を見て、前を向いて進んでいく。

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