自然はアクセス数なんて気にしない

いろいろエッセイ
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 今日、数日ぶりに散歩をした。20分ほどの短い散歩だったけれど、とてもリフレッシュできた。よかった。
 実は今日のこのブログのアクセス数が何と何と1なのである。(5月31日午前11時現在)まじで?まじすか、まじすよ。てなわけで、落ち込んでいた星さんなのであった。
 でも、散歩をして気分を取り直すことができた。散歩前には「アクセス数 増やすには」というワードで検索して指南をあるサイトから受けていたのだった。
 だが、だが、そのサイトの文章を読んでいるとイライラしてくるのだ。どうやらそのブログの執筆者はブログでがっぽがっぽ稼いでいる口らしく、上から目線でああだこうだと言ってくる。
 その人いわく、「無料ブログのごみみたいなサイトが検索エンジンに嫌われるのです。」
 ってお前、何様なんだよ。お前そんなに偉いのか?キー!キキー!!(怒り)まるでわたしの旧サイトを頭ごなしに否定されているような気がしてきて不快極まりない思いだった。
 やっぱり人間成功するとだめになってしまう人もいるみたいですね。(しみじみ)そもそもそのブログの収益だって、ブログを読んでくれている人たちのおかげなんでしょ?そのことに気付けよ。まったく、もう。
 散歩をしていて気付いたこと。それは、「自然はアクセス数なんて気にしない」という至極当たり前のことだった。そうなのだ。わたしのブログのアクセス数が1だろうが、10万だろうが、そんなことおかまいなく自然は自然で自分の調子でやっていくのである。日がでて、日が沈んで、また日が出て、それから沈んで。とまぁ、そんな調子なのである。だから、ブログのアクセス数が増えるにこしたことはないけれど、そんなに焦らなくてもいいんじゃないか。別にそのブログだけで毎月の生活費をやりくりしているわけではないのだから、早急にアクセス数を増やさなければならないわけではない。(と言いながらも月収140円の男にとってブログの収益だけで生活することは夢なのだが。)
 田んぼが続く道を歩いていたら、こんなことも思った。「お金はあったらあった方がいいけれど、ほどほどにあればいいなぁ。」しみじみとした納得なのである。逆にビジネスこそが自分の生きる目的であり意義だとなってしまったら、それこそ本末転倒ではないだろうか。まさに金を自分の中で一番に持ってきてしまうことになるのだから。わたしはそうして道を踏み外したくはない。お金はあくまでも幸せになるための手段でしかないと心しておきたいものだとつくづく思う。金を得ることが人生の目的だなんて馬鹿げている。
 もちろんわたしがお金をほしいと思っていてそのために動き出していることも否定はしない。けれど、それは手段として求めているにすぎないのである。
 つい気が付くとお金が手段ではなく目的になりそうになる。でも、いかんのだ。それはいけない。この文章を書きながら自分の軌道修正をしたわたしであった。
 今日の散歩は夕方で日が沈みはじめたころだった。夕日が田んぼの水面を照らしてそれはそれはきれいだった。おそらくお金を第一にして、お金のことだけを考えている人にはさっぱりこの価値はわからないだろうなぁと思う。田んぼを照らす夕日を見ても何も金にはならないからだ。時間のロスとさえ見なすかもしれない。
 わたしは今、モンシロチョウを再び育てている。彼らの成長していく姿を追っていくのが本当に楽しい。蝶になる時なんて泣きそうになるくらい感動する。この決して裕福とは言えないながらも、心の豊かさのある生活を忘れないようにしていきたい。「モンシロチョウ? んなもん育てて何になる?」と言い切ってしまう人に、お金を手にしたらならないか自分自身、心配ではあるが、この初心というか謙虚な心を持ち続けようとしていけば大丈夫だろう。(と思いたい。)
 「自然はアクセス数なんて気にしない」し、お金をどれだけ持っているかなんていうことも気にしない。人間のプライドとか名誉のちんけさが散歩をしていたら見えてきた。自然はそんなこと気にしない。それよりも、むしろ自分が自然の一つである人間としてどう生きるかということの方が大切で、そのことにかかっている。
 裸で生まれて裸で死んでいくのが人間だ。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、本当の意味で豊かな生き方をできたらと思う。
 散歩をしていたら自分の悩みがちんけな悩みだということに気付けた。あなたも煮詰まったら、考えあぐねたら軽い散歩をしてみてほしい。もしかしたら新しい光が射し込んでくるかもしれない。


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