神様動画を天国で見たいなぁ

キリスト教エッセイ
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 インターネットの技術が発達して回線の速度が劇的に速くなり、今ではYouTubeなどの動画が当たり前の時代となった。動画に限らず、何か単語を入れて検索すれば大抵の情報は手に入れることができる。便利だ。いやはや、とても便利だ。
 と、こういう世の中になったからなのか、わたしはこんなことを考えた。それはわたしの人生は一本の動画のようなものではないだろうか、という突然の思いつきである。そして、それを神様とつなげて考えるなら、きっと神様のもとにはわたしの人生動画があるんじゃないか。そんなことを想像している。
 神様はきっと、天地が創造されてアダムから現在にまで至るすべての人間の生き様を動画のようなものとして持っておられるのではないか。しかも、それを大切に大切に天の記憶媒体(?)に保存されているのではないか。もしくは神様自身の中に取り込んで保存されているのだろうか。それがどういう仕組みでどうなっているのか、ということは想像をめぐらせるしかない。けれど、何かそんな風になっているような気がする。
 さらにその動画は二次元ではないだろうと思う。三次元でその時の様子などもすべて逐一保存されていて、いつでもその人が生きていた頃の様子を再生することができる。
 すべての人の人生動画(しかも三次元)が天に保存されているとしたら、それはもっと言うならすべてのことが保存されているということになるだろう。過去の歴史が一本の動画として存在すると考えるのがもっともなように思える。もっと人類の歴史とかそういう狭い範囲ではなく、天地が創造された瞬間からその動画は始まり、そして天地が滅びる終末まで記録されている。もうその動画は完成されているのだろうか。天地が誕生した時から終末まですべて既に記録されているのだろうか。ということはわたしたちが今だと思っている、いや思い込んでいるのはすべて神様にとっては過去なのだろうか。それは難問だ。今が本当に今なのか、というのは難しい問いだ。わたしたちが今だと思っているのは実は神様からしたら過去だったということもないとは言い切れない。しかし、わたしたちは今(だと思っている今)しか生きることが出来ないからまぁ、やっていくしかない。
 神様動画はもう既に完成しているのか。そのことについて議論してもらちが明かないので置いておくとして、わたしが考えるのはそうした動画は存在するのではないか、ということだ。少なくとも動画は存在するような気がする。わたしの人生の歩みが一挙手一投足記録されている動画。それ、見られるものなら見てみたいものだなぁ。
 もしかしたらその動画、天国に行ったら見ることが出来るかもしれない。いや、わたしについての記録だけではなく、天地創造からそれらが滅びるまでの記録も見ることが許されるのかもしれない。それ、面白いだろうなぁ。どんな歴史書も小説もドラマも映画も真っ青なくらい面白いだろうなぁ。
「ただ、もしもそういう動画が見られるとしたら時間かかりすぎない?」
「再生速度を倍速にしなかったら数十億年はかかるよ」
「そういうつまらないこと言わないの。そういう物理的な問題は神様が何とかしてくださるから大丈夫。それに天国で過ごす時間は永遠だから、数十億年でも決して長くはないよ。だから無限の中では数十億年なんてすぐ終わるから大丈夫」
 そういうわけで天国に行くのがもっと楽しみになったのだ。聖書にはそういうビデオがあるとか何も書かれていないけれど、想像をふくらませるのは自由で大いに結構なことだと思う。
 わたしもあなたも彼らもみんな、その動画の登場人物。精一杯この生涯を生き抜いて天国でそれをゆっくり鑑賞する。そういった希望を持つのも悪いことではない。まさに大スペクタクルな作品なのである。その登場人物になれたことを神様に感謝したい。
 というわけでこの作品をみんなでさらに面白くしていきましょう!

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