わたしはわたしでいい

いろいろエッセイ
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 世の中にはすごい人がいる。何か一つの分野に精通した人、もしくは多分野のスペシャリストだったり、とにかくその道に詳しい人というのはいる。それが何か資格を取っていたりすれば公に認められた専門家であり、一方で資格などは持っていなくても専門家顔負けの知識を持つ人もいる。
 わたしは何かに特化した人に憧れる。わたしは肩書きには弱いほうで、専門家と聞けば恐縮してしまったりする。
 そういうけでわたしはその憧れているすごい人に近付こうとか、その人になろうと懸命に努力してきた。でも、その人はわたしの歩幅とは比べものにならないくらいの大きな歩幅でしかもわたしよりも速く長く歩き続ける。だから、差がいっこうに縮まらないどころか、どこまでも差をつけられ続けている。そして、その差はもうどんどん広がっていて追い付ける気配が微塵も感じられない。すごい人というのはやめないで続ける人である。それもひたすら努力し続ける。
 そんなわけでどこまでやっても追い付けないわたしはまるで無理ゲーでもさせられているかのような気分になり、「もう無理」と座り込んでしまった。
 で、考えたのだけれどこのやり方は結局わたしがその憧れの人になろうとしているということなのだ、ということに気付いた。と同時にこうも思った。「それって意義のあることなのだろうか?」と。
 わたしが憧れの人に近付く。そして、最終的にはその人になる。それはわたしを殺すことである。わたしという唯一の個性を持った人間を殺すことなのである。その人と同じくらい見識を深めるということ自体には意義があるのかもしれない。でも、その人と同じように考えて感じて同じ結論を出して同じようになる、ということは何だかむなしいことのように思えてきたのだ。
 それはわたしらしくない。知識をたくわえて専門性を身に付けることはいいとしても、やはりわたしはわたしでいいのだと思い直したのである。
 わたしはわたしがやったこととやらなかったことで出来ている。何をどれだけやって、何をどれだけやらないか。それがその人の個性を形作って独特なユニークなものにしていく。だから、マンガを80%、小説を10%、哲学書を10%読む人は、詩を50%、小説を50%読む人とは明らかに違うことは言うまでもないことだろう。そして、仮に小説50%と取り組む時間が同じくらいだとしても、小説の何を読んでいるかによってその人の人格は違うものになってくる。もっと言うならたとえ一卵性双生児だったとしても24時間をどのように過ごすかが全く同じということはないから、一人ひとりがユニークな存在なのである。
 わたしができること、できないこと。知っていること、知らないこと。それらが独特な色合いと模様になってわたしを織りなしている。だから、わたしはわたしでいいのだ。誰かと比べてあの人みたいになりたいと志を立てることはあったとしても、その人になる必要はないし、そうすることは自分を否定して葬り去ることになる。
 こう考えてからとても気分が楽になった。もう憧れのあの人になろうとしなくてもいいんだ、と思うとすごい解放感に包まれた。わたしはわたしでいい。むしろ、できないことや劣っているところがわたしの個性でありユニークさなのだ。完全な球体ではなくて、不完全で凹凸があってでこぼこしているからこそ味があるのだ、このでこぼこがわたしらしさであり個性なんだ。逆に完全な球体になってしまったらそれはもはや人間ではない。それは神だ。
 わたしは数学ができない。英語ができない。化学ができない。生物ができない。でも、その欠けたところが今のわたしらしさを形作っている。とは言えども、人は変わっていくものだから、変わっていけるものだから、未来のわたしは数学ができるようになっているかもしれない。それは未来になってみなければ分からない。でも、何かができないということを否定的に悲観してとらえるのではなく、それも今のわたしなのだと肯定的に受け入れていくことができたらいいなと思う。
 できないことや欠けているところなども自分の大切な一部として受け入れる。それこそが自己肯定感ではないだろうか。
 でも、できないことができるようになったらいいなとも思う。それこそが学びではないだろうか。知らないことを知り、できないことができるようになる。それこそが成長。そうして、昨日よりも今日。今日よりも明日。明日よりも明後日、と人間は成長していく。
 成長したい。これは人間の本能なのではないかと思う。勉強に限らず、できなかった逆上がりができるようになりたいとか、自転車に乗れるようになりたいとか、やせたいとか、筋肉をつけたいとか、できなかった料理を作れるようになりたいとか……。
 毎日生活しているだけで人は変わっていく。生きるということは選択の連続である。だから、その選択したものによって人はつくられていく。
 1年後のわたし、5年後のわたし、10年後のわたしはどうなっているのだろうか。とても楽しみだ。もしかしたら、英語をペラペラ話し、難しい数学もできるようになっていて、旧約聖書をヘブライ語でスラスラ読んでいるかもしれない。と思いきやタイ語にはまってタイ語がペラペラになっている? それは分からない。でも、分からないからこそ面白い。
 わたしはわたしでいい。そして、わたしは変わっていく。わたしはわたしでしかなく、わたしはわたしとして生きていくのだ。

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