何かをやっていて、「あぁ、幸せだなぁ」と思う時がある。それは日常のささやかなありふれた時であったり、非日常的な時であったりと、そう思える時というのはあるものだ。そして、そんな時にわたしは決まって、この時がいつまでも続いてくれたらいいのに、と思ってしまう。この心地良い、幸せな時が終わってほしくない。いつまでも、いつまでも続いてほしい。そんな欲張りきわまりないことを思ってしまう。
昔読んだ漫画のドラえもんにこんな秘密道具があった。それはたしか時間を少し戻すことができる道具で、ケーキを食べるとしたら普通は、食べている時に「あぁ、おいしい」と感じて、食べ終わるとそれで終わってしまうところを、時間を少し戻して食べる前に戻す。要するに、何度も何度もケーキを食べることができる。一つしかケーキがなくても、そのケーキを何度も何度も味わうことができる。その漫画を読んだ時、「こういうのがあったらいいよなぁ」とわたしは思った。
この道具を18禁的に使うなら(藤子先生、すみません)下世話だけれど、やっぱり性行為に使うことだろう。何度も何度もその性的な快楽を時間を巻き戻してはひたすら味わう。男だったら賢者タイムなど何も挟まずに、ひたすらやっている状態に等しい。いいよなぁ。っていうか、ドラえもんの道具ヤバイよなぁとさえ思う。
心地良くて気持ちがいい状態が続く。それは誰しもが求めていることで、それを得ようとして人はいろいろなことをやって、その果実を味わおうと求める。
その最高に気持ちいい状態がひたすら続くためにはどうすればいいのかといえば、それこそ天国へ行くことではないかと昔のわたしは考えていた。天国へ行ったらきっと不快なこととか嫌なことが何にもなくて、とにかく白くて美しい光があたり一面に射し込んでいて、そこには白い衣を来た善良な人たちがいる。それはそれは心地いい、最高に幸せな場所。だから、天国。
そういう風に想像していたから、教会で、ある年輩の信徒さんが「天国に行ってもまた課題が用意されていて、それらを達成しなければならない。やらなければならないことはなくならないよ」と言った時にわたしは「そんなの天国じゃない!」と猛烈に反発した。「違いますよ」と反論して、その信徒さんと20分くらい無益な神学的な議論をひたすらしていた(笑)。頑固な二人がお互いに自説を譲らない、みたいな状況だった(めんどくさい人たちです)。
天国のような楽園があるのか、それともないのか。それは分からないし、証明することもできないから、「わたしはそれを信じています」ということで話は終わる。あるならあるだろうし、ないならないのだろう。それだけのことだ。
でも、天国があるかどうかはともかくとして、わたしはこの地上で、ブルーハーツの言葉を借りるなら「終わらない歌」をいつまでも歌っていたかったのではないかということにふと気が付いた。終わらない歌、つまり永遠の歌。
人がなぜ歌を歌うかと言えば歌いたいからだ。歌うことが心地良くて幸せだからだ。好きだからだ。気持ちがいいからだ。もちろん、その歌うことを商売などにしているプロの人だったら、単に歌いたいだけではなくてお金を得ることも理由として加わってくるだろう。でも、歌というのは本来は利害とか損得とは関係ないもので純粋に歌いたいから歌うもの。踊りもたぶんそういうものだし、歌も踊りもいわば子どもの遊びのようなものだと思う。それをやることに目的なんてなくて、強いて言うなら、それをやること自体が目的となっているような、そんな営み。
終わらない歌。そんな歌を歌いたい。歌っていたい。でも、「終わらない歌」なんてあるわけがないし、明らかにその概念は矛盾している。終わるから歌。終わらないのは歌ではないし、仮にいつまでも歌い続けようとしても、それは物理的、身体的には無理なことで、人はぶっ続けで歌を歌い続けることはできない。必ずどこかでその歌は途切れて終わってしまうし、人はいつかは死ぬのだから終わることなく永遠に歌っていることはできない。
となると、終わらない歌はやはりなくて、すべての歌には終わりがある。終わりがあるから歌なんだ、ということなのだろうか。
けれども、終わらない歌がある。それもとっておきの歌が。それは空や無といった何もないという歌だ。それだけが、それだけが終わらない歌だと思う。そもそも始まりもなければ終わりもない。それこそが本当の意味での終わらない歌だ。時間や空間からも自由な空や無という歌。現れもせず、消えてもいかない、本当の意味での永遠の終わらない歌。
世界中に存在するいろいろな音楽をたくさん耳がおかしくなるくらい聴いて聴いて聴き続けて、最後にたどり着くのが音が何もない無音の空や無という音楽ではないかと思う。この沈黙の静けさを音楽と呼んでいいかは分からないけれども、どこまでも音楽を突き詰めていくとたぶんここに来るだろうし、ここに戻って来ざるをえないはずだと思う。
何年も前に、わたしが教会の聖書研究会に出席した時に牧師がしてくれた面白い話があったのでちょっと紹介したい。その牧師は天国についてのある映画を見たらしい。その映画によると、天国という場所はすごく静かな所であって静かにしていなければならない。少しでも私語をしたり、場違いなこととして大きな音を出すエレキギターを弾くなんてもってのほかで、それに違反すると、そこを管理している人(天使だったかな?)から「シーっ」と静かにするようにたしなめられて注意されるらしいのだ。だから、天国という場所は刺激がなさすぎる退屈な場所なのだと。牧師が言うには、その映画で「シーっ」と静かにしてくださいと注意するところがあまりにもおかしすぎて笑ってしまったとのことだった。
死んだ後に天国が待っていて、少しでも音を立てると「シーっ」と言われるのかどうかは分からないし定かではないものの、その可能性とともに「無や空」という場所(それは空間や時間に制限されていないだろうから厳密には場所ではない)が待っているのかもしれないなとわたしはいろいろと想像する。
どんな歌よりも素晴らしい歌。いや、素晴らしいとか、いいとか悪いとか、優れているとか劣っているとか、そういう次元を超えている歌。それは終わらない歌である静寂であり、静けさではないかとヨガを本格的にやるようになって思うようになった。わたしのヨガの師匠も「昔はいろいろな音楽を聴くのが楽しかったけれど、今は音が何もない静けさを味わうのが好き」と言っていてすごく分かるなぁって思う。
終わらない歌を歌う。それはもしかしたら何も歌わないことなのかもしれない。歌わないでただ無であること。それこそが終わらない歌を歌うことだという強烈な逆説! 一番ロックなのは沈黙による静寂。ワーワー、ギャーギャーと大きな音を出して、ガーガー騒いでいるのはまだ青いのだろう。
終わらない歌には始まりがない。だから終わりがないし、終わることもない。
「緊急発表~!! わたくし、星が近日、新しいCDを出すことになりましたのでその告知をしたいと思います。そのCDのタイトルは「終わらない歌」です。収録時間0分0秒の超力作です。みなさんぜひ買ってくださいね。」
一同「いらね~」。
でも、現代作曲家のジョン・ケージという人が「4分32秒」という4分32秒間、無音の曲をCDとして出しているのでこれもありではないかと。
このわたしの新曲(?)、1枚3000円くらいで売ったらバカ売れ必死ですかね? あと、このCDにはわたしの霊的なパワーが込められていますから。ってますます怪しい? もちろん、ぼったくりではないですよ。静けさ、静寂は最高の音楽ですからね。むしろ3000円では安すぎるくらいですよ(謎)。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。