突然ですけど、明日死ぬかもしれないです

いろいろエッセイ
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 どうもー、星です。何か久しぶりの記事ですけど元気にしてました? いやー、もう星さんのブログが全然更新されないから死んだのかと思ってましたよ、なんて言ってくれます? もう星さんの新しい記事が読みたくて読みたくてウズウズしていたんです、とか言ってくれる人はおそらくいないと思うけれど、まぁいい。ともかく、わたしは生きておりました。生きて生活というやつをしておりました。日々日々、人生を送っておりました。ハイ。
 で、突然で申し訳ないのですが、明日死ぬかもしれないです。ついに星さんは人生を自らの手で終える決意をした、ということではなくて、そうではなくて明日がわたしにとってのXデーなのかもしれなくて。だから死ぬかもしれないということです。
 そう、あれはもう2年くらい前のことで、夢で2月の某日に死ぬとお告げを受けたのだった。そして、その某日というのがまさに明日で、毎年この日が近くなってくると、もしかしたら今年なのではと気が気でなくなってソワソワしてくる。
 だから、もしかしたらそのXデーが明日かもしれないので、この人生にさようならをしなければならないかもしれない。そう思って自分の人生を今、ちょっとおセンチに振り返っている。そんな次第なのです。
 振り返ってみると、まぁこれで良かったんでないのと思えるのが救いでおおむね満足はしている。というか、過去を含めてかなり美化していると言えば美化しているのだけれど。
 なんてわたしの人生の振り返りに付き合わせてしまってもたぶん面白くないと思うので(そんなこと言われても関係ないしねぇみたいな感じだろうと思う)、ちょっとためになることを言おうかと。いやね、みんな明日死ぬかもしれないということは同じだから(名言出ましたよ。名言が。皆さんここ大事ですよ。メモしてください)。誰一人としてそれを免れている人はいないというこのものすごく当たり前すぎること。そのことを今、わたしは思っている。
 でも、人というのは何か自分が永遠に死なないんじゃないかって思ってるんだよね。他の人たちはバタバタ死んでいるけれど、自分だけは例外なんじゃないかってね。それが何かあって死ぬかもしれないとなった時に自分も死んでいく存在だったということに気付くのだ。
 とは言いながらも、自分も他の人たちと同じように死ぬのかどうかは分からない。もしかしたら死んだと思った瞬間にまた新しい人生がスタートしているかもしれないし、あるいは自分が人生だと思っていたものが未来人(25世紀とか26世紀の未来の人かもしれない)の人生ゲームでしかなかったということも考えられるからだ。また、もしかしたら人生ゲームなどでもなくて、夢とか幻でしかないという可能性だって十分にある。この長い長い夢、リアルで生々しい幻。すべては夢幻でした、なんていうオチも十分ありだと思う。少なくとも絶対にそんなわけがないと否定することはできない。なぜなら、この人生の外側、つまりは自分が認識している五感で感じているこの世界の外側に出ることはできないのだから。
 本当はこの世界や自己や他者をも含めて仏教やインド哲学などが言うように、それらは実在していなくて何もない無とか空なのかもしれない。本当は何も、何にもないのですよ。ただあると錯覚して勘違いしているだけなのですよ。だから目覚めることが必要なのです、と。そういう可能性だってないとは言い切れない。
 この思想はかなり強烈で、善悪、倫理、道徳、モラルなどすべからく何もかも消滅してしまう。だってすべては夢とか幻だったら何をしようが自由でしょ、となってしまうからだ。うむ、ヤバイなこの考え。劇薬すぎてヤバイ。
 こういう感じの東洋的な思想が真理で真実なのかもしれないと考えることができる一方、ごくごく普通のありふれた常識的な世間一般のとらえ方が正しかったという可能性もある。この世界はちゃんと実在していて、夢とか幻ではなくて現実。だから堅く堅実にちゃんとやりましょうよ、という捉え方。
 わたしの人生がもしかしたら明日幕が下りるかもしれないわけですけど、この40年ちょっとの人生で分かったことを申し上げるとすれば、結局一番肝心なことが分からなかったなということに尽きる。肝心なこと。それは世界や自己や他者というものが一体どういうもので何なのか。そして、それらはちゃんと実在していてたしかなものなのかどうか。このことが分からなかった。謎というかヴェールに包まれていて明らかにはならなかったというか。まぁ、この謎というのが不可解というところまでは行っていないのが唯一の救いかなという気はする。この世界自体が奇妙で不気味そのもので訳が分からないからもう生きるのはやめようとか、そういう感じにはならなかったから。
 哲学者のソクラテスを持ち出すまでもなく、人間というものは無知の知のような存在で何も知らないのかもしれない。ただ知っていると思い込んでいるだけで実際には何も知らない。この世界とは一体どのようなもので、自己や他者も含めてそこに生きていたり、存在していたりするものが一体何なのか、その正体を知らない。この正体というか真理のような本当のそのもの自体の姿というものをわたしたちは知ることがおそらくできない。目の前にあるように見えるリンゴだってそこに本当にあるのかどうか大いに疑問で、本当はそこにはリンゴなど何もなくてあるのは虚無でしかないことも十分に考えられる。
 いや、そんなあるとかないとか真理とか何が真実だとかどうでもいいでしょ。それよりはこの人生を毎日楽しくハッピーに生きることができればいい。幸せになろう。それがすべてだ。そう思う人もいるかもしれない。でも、わたしにはそうは思えなくて、この世界、自己、他者などがちゃんと存在していること、実在していること。つまり、たしかだということはものすごく重要なことだと思う。だって、幻とか夢の中で楽しく幸せになっても仕方ないでしょ、むなしいでしょと思うからだ。と言いつつも、仮にこの世界だったりそこにあるものがちゃんと存在していてフィクションではなかったとしても、夢や幻のようなものであることに変わりはないのかもしれないともわたしは思ったりする。世界、そしてそれに含まれているすべてのものが泡のようなもの。泡までいかなくても海の波のようなものではないかと。現れてそして消えていく。ただそれだけのものではないかと思ってしまうのだけれど、ちょっと悲観的すぎるだろうか?
 でも、もしも人生に意味があるのだとしたら、この本当に儚い泡や波のように消えていく人生に「これは意味がある」と意味を見出すことではないかと思う。はじけて消えていく泡。海の水へと戻っていく波。消えていき海という源へと還っていく。そのことに意味を見出せるかどうか。いや、この泡や波そのものさえも幻や夢のようなものでしかなくて、そこには存在せず実在していないかもしれない。それでも、その夢や幻に意味を見出せるかどうかと言えば難しいけれど、意味とか価値などというものはそのようなものだと思う。考えてみれば時間だって夢幻のようなもので、多くの人はその時間というものに尊い意味や価値を見出している。時間は何も残らないけれど、跡形もなく瞬間瞬間ごとに消えていってしまうけれど、それでもだからと言って意味がないわけではない。少なくともその消えていく一瞬一瞬に意味や価値を感じるのであれば。
 と、昔やっていたときめきメモリアルという恋愛シミュレーションゲームに登場する一人の女の子のことを今、突然思い出した。その女の子はたしか朝比奈夕子という名前のものすごくミーハーな流行の最先端を行こうとするいわばギャルで、その子は主人公(プレイヤー)と一緒にどこかへデートなどで出掛けるとそれはそれは一緒に写った写真をたくさん撮りすぎだろというくらいに撮る。なぜ彼女がそうしたのかやっと今分かった。彼女は、立ち現れては消えていく今というこの時を大量の写真を撮ることで捕まえておきたかったのだ。今のこの幸せな瞬間を写真として切り取ることで失いたくない。そんな気持ちが見て取れる。
 でも、写真を撮っても、映像を撮っても、それ以外に文章などで記録しておいても、その今はもう戻っては来ない。過去を再体験することはできないのだ。今を体験して感じることができるのは今だけ。だからこそ今は尊い。よく何かイベントの時に、自分でその時間を味わうことよりもひたすら一生懸命にその様子をビデオなどの動画として収めている人がいるのだけれど、わたしから見るとすごくもったいないなぁと思う。映像などの記録として残すことは意味がなくて無駄だと言いたいのではなくて、ただただ、もったいないなぁと。
 って、こんなことをくどくど書いている場合ではないのかもしれない。明日死ぬかもしれないのだから、それ以外のもっとやりたいことをやった方がいいのでは、なんて自分にツッコミを入れたくもなる。でも、まぁいい人生だったと思っているのでご心配なく。もう思い残すことはございませんだ。あっしは生き切りましたんで(「突き抜けるまではやってないだろ」とか言わないようにお願いします)何の未練もございません。と言いたいところだけれど、一つあれをやっておきたかったっていうのがあるんだよね。でも、何かそれも大したことではなかったような。ま、それと似たようなことはやったしね。十分やりました。と賢明な読者様なら下(しも)の方だなと察してくださっていると思うので、ここではあまり詳しくは書きません。これが最期になるのだとしたら最期の最期でそういう話をぶちかましても仕方ないしね。まぁ、いいんでないですか。良かったんじゃないですか。わたしの人生悪くなかったよ。いや、すごく良かった。もちろん、こうすれば良かった、ああすれば良かったと減点方式の採点をして気持ちを落ち込ませることはできるけれど、100点満点のうちの150点とか160点くらいだったと思いたい。いや、そう思うんだ。
 わたしの人生は誰かから見たら「つまらん人生でパッとしなかったよね。しょぼかったよね」程度のものだったかもしれない。でも、それはその人がそういう基準を持ち出して評価して判断しているだけでしかない。だから、同様にわたしはわたしで、自分の評価するための基準を持ち出して自分の人生、生涯をジャッジする。世間一般とか誰かにとってどうか、なんていうのはどうでもいい。自分が死んでから外野が何を言おうとも好きなだけ言わせておけばいい。

 う~ん(Thinking time)。

 いや、

 わたしは波だった。この瞬間、海に起こった一つの波だった。そして、また海へと戻っていった。
 わたしという一つの波の物語。それに意味を見出す人は見出し、そうしない人は見出さない。ただそれだけのこと。あの時、立ち現れた波に意味があったのか。それともなかったのか。
 そんなことなどおかまいなしに海の波は次から次へと現れては消えていき、終わることなくひたすらそれを繰り返している。
 それでいいのだろう。たぶん、それでいい。それで。

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