豆腐メンタルを強くするには

いろいろエッセイ
この記事は約7分で読めます。

 最近、防衛のことを学びたいと思い、週2でぼちぼち勉強を続けているわたし。何を読んでいるかというと『防衛白書』を読んでいる。読んでいて思うことはかなりシビアな内容も含んでいるということだ。核とか弾道ミサイルとか世界の危機とか、そういったやばめのワードが次々に出てくる。そんなワードに接していることによって、わたし自身に変化が生じてきたようなのだ。どんな変化か? 前は新聞を読むとすごくメンタルがへこんで落ち込んだのに、それがなくなったということ。もしかしたらだけれど、防衛白書でわたしのメンタル、結構鍛えられているんじゃないかっていう気がする。防衛白書を読んでいると、世界というものは危うい均衡の中、何とかバランスを取って崩れそうになる一歩手前で踏みとどまっていることが見えてくる。そうだ、言うまでもなく現代は危機なんだ。その当たり前のことに気付かされただけでもわたしのメンタルは丈夫になってきたのかもしれない。
 新聞にもやばいことはたくさん載る。載っている。けれど、防衛白書ほどではない。何て言ったらいいのか、防衛白書はそのやばい部分が寄せ集められていると言っていい。まぁ、だからと言って防衛白書が悪書だとか発禁処分にすべきだなどと言うつもりはない。防衛白書は防衛白書でたしかな現実を教えて示してくれているし、人間の、世界のきれいごとでは済まされないような部分がとりあげられていて、現代人のおそれと恐怖心が手に取るように見えてくるから意義がある。
 国を守るというのはもっとも基本的な平和のために必要なこと。でも、それを裏返せばそれだけ疑心暗鬼と言ってもいいような、そんな恐怖心が全面に表れている。みんな、こわいんだよ。いつ誰が自分たちを攻撃してくるのかってビクビクしているわけだ。平和が脅かされてしまうことがとてもこわいんだ。だから、守る。武装する。武器や兵器でガチガチに武装してとにかく身を守ろうとする。ミサイルを他国が撃ってきたことを想定して迎撃システムを完全に構築しようとする。何もわたしはそれらが無意味だとか、そんなのしなくていいとかそんな意見を言いたいわけではない。もちろん、そういったものはそういったもので必要なのだろう。でも、何というか結局のところ、こわいんだなというところにたどり着くわけだ。みんなこわい。だから、ガチガチに武装する。
 以前の豆腐メンタル(今は厚揚げくらいにはなったかな?)のわたしは特に弾道ミサイルに脅えていた。そのミサイルに核を搭載して他国が撃ってきたら、どうなる? 広島、長崎の再来、いやそれ以上に性能がパワーアップして格上げされている今の核だったらそれ以上の被害が出る。広島、長崎程度では済まないぞ、と恐怖心はどんどんふくらんでいく。
 でもね、防衛白書読んでたらわたしの豆腐メンタルも厚揚げに成長したのか、撃たれたら1億2000万人みんなが困るわけだからもう仕方ないんじゃないの、っていうなかばあきらめの気持ちが出てきたんだ。もうそうなったらそうなったで仕方ないべ。うちら日本は、日本人はもう全滅だべ。そうなったらなったでそれも神様のご計画なんだから仕方ないなって開き直ったんだ。あきらめるまではいかないけれど、あきらめたという心境に近いものがあるかもしれない。
 と言いつつもできることが皆無であるわけでもない。「通販生活」2022年冬号で防衛ジャーナリストの半田滋さんも書いていたけれど、ミサイルを撃たれないような状況を作っていくように外交なり何なりで働きかけることは十分可能なのだ。半田さんは「ミサイルを撃たれても撃ち落とせばいい」ではダメじゃないかと言うんだ。そこまで状況を悪化させる前にやれることをやって手を打っておく。そのことの重要性を説くのだ。
 とまぁ、そんなわけで新聞が普通に読めるようになりました、と画期的な躍進を遂げたわれらが星どん。しかし、しかしだ。批判されることに相変わらず滅法弱かったりする。豆腐メンタル、いや厚揚げメンタルになったんだったな。その厚揚げメンタルのわたしにとっての課題は批判にどのようにして向き合えるようになるか、ということではないかと思うのだ。
 おそらく繊細なわたしの心は、どうやら批判をされるとわたしの考えが批判されただけなのに、それをその考えを持ったわたし自身が批判されているかのように思ってしまうところがあるようなのだ。
「批判=わたしの人格、存在そのものへの批判」
 と受け止めてしまう。そんなことはないのに、そんなことはないのにグサリとやられてしまう。そこが日本人的というか、日本人がディベートができないことと関連しているわけだけど、議論していて反対の意見を持ち出されると意見と意見が対立しているだけなのに、それがこちらへの人格攻撃であるかのように思えてしまう。
 うむ、そこを切り分ける。批判されたらそれはあくまでもわたしの意見や行動に対する批判なのであって、わたしの存在価値とか存在意義とかそうした繊細な根幹の部分への批判ではないとわきまえた方がいいってことなんじゃないか。そうか、わたしはこの両者を混同していたわけか。つまり、罪を憎んで人を憎まずの姿勢ってことだな。たしかに何か悪いことをしたらそれは悪いことなんだけれど、だからといってその人の存在価値とか人間としての尊厳とかが失われるわけではない。そうした価値や尊厳は生まれてから死ぬまでずーっと水平の直線で一定で変わらない。それをわたしたちは何か良いことをすればその人の人間としての価値も上がって、反対に悪いことをすれば下がる、みたいに思っているところがある。でも、そうではないんだ。どんなことをしようがその人のそのものの価値は何ら影響を受けないんだ。
 思うんだけれど豆腐メンタル、いや厚揚げだったな、がグシャリと潰れるときっていうのは、自分の存在価値とか存在意義が脅かされて修正不可能なくらいのダメージを受ける時なんだろうな。どんなに批判されようと、それが自分自身の価値に影響しない時にはどんなに批判されようと痛くもかゆくもない。そうした批判が自分の価値を揺るがしたり、破壊したりする時、やっぱりわたしを含めた多くの人がグシャリとメンタルが潰れてしまうんだ。だから、闘牛士が牛をマントでひらりとかわすように、この場合、闘牛士自身が自分自身の存在価値とか存在意義だとすると牛という外敵からの攻撃である批判をかわすことができればダメージはないわけだ。だから「あなたが何と言おうがわたしの存在価値は平気ですよ~。どんなこと言われても気にしませんよ~。ケセラセラ~。あはは~」と笑いながらひらりひらりとかわせれば、何も痛手は負わないっていうことだ。悪く言えば無神経とか脳天気ってことになるんだろうけれど、そういう人がうらやましいな。ケセラセラ~になれるものならなりたい。そのためには相手の批判というものは自分の人格への攻撃とか存在否定ではないとまずは認識することから始めていったらいいんじゃないかって思えてきた。もちろん、本当に悪意のある人の場合には「お前って価値ないね」みたいに言って心臓を狙って突き刺そうとしてくるけれど、「それはあなた個人の意見ですよね。あなた一人の考えですよね~。ケセラセラ~」とこれまた突き刺しに射抜かれない道を選んでいくしかない。これまたケセラセラ~ってね。本当、ケセラセラ~って最強の言葉だなって思う。このケセラセラ人間、メンタルが相当強いわ。でも、この人はメンタルが強いと言うよりはただ身軽で身のこなしが軽いだけなのでは? ただ、批判を受けたときの対応が凡人とは違っている。それだけのことでしかない。
 だから、豆腐メンタル、いや厚揚げだった(ってくどいな)を強くして鉄のかたまりにするのではなくて、ケセラセラ~と厚揚げのまま、ひらりひらりとかわしていく。その道の方がいいのではないかと思えてきた。そして、批判を真っ向から受けない。批判は批判として聞くことは聞きながらも、自分の一番大事な部分までは射抜かせない。それこそがメンタルを強くしていく道ではないだろうか。本当にメンタルが強い人とは受け流せる人。柔よく剛を制す、の言葉にもあるように、やわらかくやわらかく対応していき、結果的には強い相手をもしなやかに受け流す。これこそが武道のことはよく知らないけれども、本当の意味での達人ではないだろうか。また攻撃を受けそうな予感がしたらその場を離れて攻撃そのものをまず受けないようにすることも大事だと思う。で、攻撃を受けざるをえなかったらひらりと受け流してかわす。どんなに強い人でも真正面から攻撃を受ければやっぱり痛いしダメージを受ける。でも、かわせばダメージはゼロ。かわすって大事だな。
 身軽に相手の批判をかわせるような、そんな人になりたいなって思う。でも、反省すべきところはしっかりと反省しながらだけれど。柔の人になりたい。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました