まずは生きるという仕事を。それからさらにできるようなら狭い意味でのお仕事を

いろいろエッセイ
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 最近どうも冴えない。冴えてはいるのだけれど冴えない? どっちなんだ?
 冴えているというのは朝、ヨガの練習をやった後で、冴えないというのは家に帰ってからの時間。朝に練習をしていい感じになっても、それからぐだぐだしてしまって冴えないというわけなんだ。そして、自分が持っていない物や達成できていないことばかりをひたすら何かにとりつかれたかのように考えてしまう。
 ヨガではサントーシャという知足をすすめている。が、これが思いの外、難しい。特にわたしを含めた現代人、デジタル機器の申し子たちにとってはこれほど難しいものはない。なぜなら、ネットを見れば次から次に情報が入ってきて、自分が持っていない物やこれをやるといいというまだ達成できていないことなどの情報を大量に浴びせられるからだ。まぁ、そういう風に大衆を、ユーザーたちを欲求不満にしておくのは売る側にとってはいいことだ。その方がいろいろ、たくさん買ってもらえて儲かるから。
 本来、考えてみれば、生きているだけで良かったはずだ。よくこういう逸話があるのだけれど、自分の子どもが大きな病気にかかって生死の境をさまよった時には「この子が死ぬことなく生きていてくれたらもう何もいらない。神様仏様、どうかこの子を生かしてください」とまで言っていたのに、その子が元気になって何事もなく日常生活を送れるようになって、テストでひどい点数を取ってくると、その人はあれほど生きていてくれさえすればいい思っていたのにその点数に激怒する。人間というのは身勝手というか、何というか、ともかく何かが達成されるとさらに上のレベルのものを求めてしまうのだ。
 見るとほしくなるというのは人間の真理で、誰かがかっこよくて収入のいい仕事をバリバリして活躍していれば、それに憧れたり、あるいはそうなれていない自分自身を見て悲観したりする。幸せそうな家族、特にわたしくらいになると小さな子どもを連れた同世代かそれよりも若い夫婦の姿が気になる。また、いろいろなメディアなどで華麗な学歴を持っている人たちを見れば、何て自分は学がないのだろう。ぱっとしないのだろうと思う。豪華な広いお家も、ハイクラスな生活も、何か一芸に秀でてそれで活躍している人もこれまた然りで、そんな彼らの持っている物やまだわたしができていないことを目にするにつけて心が揺れ動いてしまう。
 そういうことをこうして書き連ねているとわたしは何を悩んでいたのだろうという気持ちになってくる。何かを手に入れるともっと欲しくなる、というこのループにわたしは囚われていた。そして欲求不満になって悶々としていた。でも、自分自身の歴史を振り返ってみれば今は満更ではないどころか、かなりステップアップしていて高いレベルにある。もう毎日が嫌で嫌で死ぬことばかり考えていた高校生から20代までの時期を思えば、何て今のわたしは贅沢なことで悩んでいるのだろう、ということだ。
 人生が思い通りにならないのは当たり前。もしも全部、考えて思った通りに欲しいと思ったものが手に入ってしまったら何も面白くない。欲しいと思うものややりたいと思うことがなかなか達成できないからこそ、それが手に入ったり、できた時嬉しい。
 それはともかくとして欲求のレベルをもう少し下げてもいいのではないかと思う。まずは生きているだけで良しとする。そんなことを言うなんてつまらない人間ですね、と思う人もいることだろう。けれども、まずは生きていることを良しとすることから始めたい。生きていなければ仕事をすることも、何か欲しい物を手に入れることもできないからだ。生きていてこそなのだ。死んでから仕事をしようとか前から欲しかったあれを手に入れようというのはナンセンスだろう。
 そういう風に考えていくと、障害者運動で「生存は労働だ」という言葉を掲げた意味がそれとなく分かってくる。最近読んでいるマルクスの「資本論」からもそのことをひしひしと感じる。そう、生きていること自体が働くことなのです。働いているということなのです。なんてことを言うと、わたしに働けコールを連呼してやまないYさんなどから「ただ生きていることと仕事をして働くことを一緒にするな」とお叱りを受けそうだけれど、わたしは一緒だと思う。なぜなら、普通に日常生活を送っていることも仕事をして働いていることも両方とも生きているという点では同じだからだ。違いはと言えば、その活動によってお金が発生しているかどうかくらいであってどちらも生きていることに変わりはない。
 じゃあどうしてその「生存は労働だ」ということを特に障害者、それも身体障害者の人たちが叫んできたのかと言えば、生きることが普通の人たちよりも大変だからだ。この際、普通の健常者の方が仕事をして働かないといけないのだから障害者よりもきついという主張はひとまず置いておこう。たしかにそうなのかもしれない。生活の糧を自力ですべて稼ぐというのはきついのだろう。でも、わたしはそういうことを言いたいのではなくて、同じことをやるにしても障害者の方が大変だということを言いたいのだ。だからこそ障害者を社会が支えようとするわけであって、同じことをするのに大変でも何でもなかったらサポートなんてそもそも必要ないだろう。
 資本論にもある通り、生産力、簡単に言ってしまえば生産性が高い人の方が同じ事であっても簡単にできてしまう。ある人が部品を作るのに30分かかるとして、それとは別の人は5時間もかかる。単純に10倍の差がある。30分の人には朝飯前のようにできてしまっても、5時間かかる人にとっては大変な仕事だ。
 そうなると生きるだけで大変な人にとってはその普通に生きることだけであってももう既に狭い意味での仕事と同じかそれ以上の仕事をしていることになるのではないか。
 わたしもご多分に漏れず精神障害があってすぐに死にたくなる。些細なことで死にたくなる。だから綱渡りを強いられる感じになることがままある。ここで死ぬか、それともやめるかと悶々と考えてまさに「生か死か」と思い悩む。こういう日常を送る人にとって普通に生きることは労働のようなものだ。いや、下手したら、場合によっては仕事をすること以上にきついのかもしれない。
 となれば、みんな働いている。仕事をしている人もしていない人もみんなこの人生というお仕事をしていてその職務を立派に果たそうと懸命にやっている。そのお仕事の中でも特に責任を持ってやらなければならなくてお金が発生するのが一般的な意味で言うところのお仕事なのだと思う。でも、その生きているという最も基本的なお仕事をクリアーしていてはじめてそれに上乗せする形でできるのがその狭い意味でのお仕事なのだから、まずは生きていること。その生きているという最も単純でありふれたように見えるお仕事をやることが最も大切ではないかと思うのだけれど何かおかしいことを言っているだろうか。
 そして、資本論を読んでいてこんなことも思った。それぞれの人の人生に優劣や序列をつけるつもりはないのだけれども、それでもあえて価値がある人生というのはどういう人生なのだろうと多少強引に経済的な感じで考えるなら、その人生においていかに労力や手間暇がかかっているかどうかということではないかと。つまり、苦労をすればするほど人生は価値があるのではないかということ。ダイヤモンドがどうしてあれほど少量で高価かと言えば、そのほんのわずかなダイヤを見つけるために人がたくさんたくさん働いているからだ。もしも、坑夫が掘り起こした時に次から次に無尽蔵に短時間で簡単にダイヤがざくざく出てきたらほとんど価値はないだろう。ダイヤは普通のただの石ころと何も変わらないことになる。それを手に入れるのが簡単で労力が不要なら言うまでもなく価値はない(低い)。
 けれども価値というのは何かと比較することでしか表現できないものだから、その人だったり物だったりを単独で価値があるとは言えない。たとえば、「わたしの人生には価値がある」と言うためには、価値のない人生が他になければならない。そうでないと価値があることにはならない。同じように価値のある宝物が宝物としてあるためにはそうではない宝物ではない物の存在が必要になる。「いや、みんな宝物だから」と思う人もいるかもしれない。でも、全てが宝だったらそれは宝とは言えない。大事な物があるためには大事でない物がなければならないのだ。つまり、価値とは何かと比較してこそはじめて生まれるものであって、絶対的なものではなくて相対的なものに過ぎない。頭がいい人も、運動神経が抜群な人も、お金持ちも、美人も、イケメンも何から何までそうではないものの存在を必要とする。それだけで価値を表現することはできないのだ。
 となると真相としては、人生の価値というものはそもそもなくて、相対的なまやかしの概念に過ぎなくて、ただいろいろな人がいて、いろいろな人生がありますねということになる。もちろん誰かの人生と別の人の人生を比べれば「こっちの方が価値がある(高い)」などと見えてしまうことだろう。しかし、その時、価値があると思ったその人の人生でさえもまた別のもっと恵まれている人や優れた人のそれと比べれば劣ってしまって価値がない(低い)ということになってしまうのだから、あてにならない。
 極端なことを言ってしまえば、この地球上に自分一人しか人間がいなかったら、自分が人として優れている、劣っている、価値があるとは言えないということだ。そうなったらそうなったで多分その人は地球にいる他の動物や植物と自分を比べてその上で自分というものの価値を定めようとすることだろう。でも、本当に何もない虚無の中に自分一人だけという状況になったらどうなのだろう? 価値があるとかないといった発想そのものが生まれないのではないかと思う。
 という風に考えてくると、インド哲学は核心をついているのだろう。平等の境地はそれを悟っていて、ただいろいろな人や物があって聖者から見たらすべて同じなんだということ。ただそれだけ。それが答えだと思う。おそらく。人間などの考えることができる存在が人や物や出来事などにペタペタと価値というものを張り付けて、「これとこれを比べたらこっちは価値があるけれどもこっちはない」などと勝手にやっているだけのことで、その物自体に価値が内在しているわけではない。いや、神様が万物の内側に価値というものを吹き込んでくださっている? まぁ、その可能性もないことはないけれども正直どうなのかは分からないから何とも言えない。
「わたしは価値がないから生きている意味がありません」と誰かが言う時、自分以外の価値があって生きている意味がある人と自分とを暗黙のうちに比べてその結論に至っている。でも、その価値があると自分が思って前提している人であっても、また別のもっと価値がある人と比べればつまらなくて価値のない存在でしかないのだから、これは単なる比較であって比べっこをしているだけでしかない。さらにはその価値があるか、それともないのかと判断する基準もちゃんと妥当なものであるのかどうか疑わしい。わたしはよく、自分は働いていないから生きている価値がないなどと思ったりもするのだけれど、その働いているかどうかという判断基準が正しいという絶対的な根拠はない。ただ多くの人がそう思っているとか自分やそのまわりの人が思っているというだけのことで、彼らは神様でも何でもないのだからタカが知れている。ただの人間が思っているだけのこと。ある基準で序列を設けて、1番からビリまで並べると、上には上がいて、下には下がいる。ただそれだけでしょとわたしは言いたい。ある基準以下の人が死ななければならないと言えるのであれば、同様にその基準以上の人が死ななければならないと言うこともできてしまうわけだからこれまたあてにならない。知能が高くて仕事ができる人間こそ不要でいなくなるべきだという論法も同様に成立してしまう。
 まずは生きるという仕事を。それからさらにできるようなら狭い意味でのお仕事を。そんな感じでやっていきたい。死にたくなったらこの言葉を思い出す。で、また歩き出そうと思う。

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