一人の女性(ひと)

いろいろエッセイ
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 人は変わっていく。瞬間、瞬間で変わっていると言ってもいい。だから、言葉というものは出した瞬間に死ぬ。言葉にした瞬間に死んでしまって、もう過去のものとなり、今感じているこの思いとは合致しないなんてことがよくあると思う。そういうわけですから、このブログには矛盾がある。この前と言っていることが違うじゃないかという所が満載。でも、いい。とにかく、「今こう思う」ということを書いているし、書いていきたい。
 以前の記事でわたしが死ぬ前に言う辞世の句が「もっと女の子とやりたかったな」だということを書いた。たしかにその時はそう思った。でも、今は何か違ってきた。変わってきたのだ。
 もしかしたらではなくて一番難しいのが一人の人を愛し抜くことではないかとはたと気付かされた瞬間が最近あった。俗に言われる千人斬りという、男だったら1000人の女の子とやりましたというのは、実はそう難しくはなくて、それよりも難しいのが一人の人を愛して愛して、それでもまだまだ愛して、他の人にはまったく見向きもせず、頭のてっぺんから爪先まで、髪の毛一本までその人を全身全霊をかけて愛する。これが一番の難行ではないか。手当たり次第に、一人あたりに少ないエネルギーを注いでとにかく気を散らしまくって、とにかく数とか量を求めるのは何か大したことがなくてつまらないのではないか、と最近思うようになった。
 あれもやって、これもやって、どれもやってというのももちろん悪くはない。いろんなことをやって、いろんな体験や経験をして人生を深めるというのもありだとは思う。でも、一番すごいのは一つのこととか、やっても数少ないことに自分の全エネルギーを注いでやることで、これにはかわないだろうと思う。特に一つのことに全力を傾けるというのは最強ではないか。
 当たり前のことだけれど、人間一人の時間とお金とエネルギーは有限で限りががある。つまり、一人の女性にすべてのエネルギーを注げばドーンとすべてが投入されるわけだけれど、1000人も女性がいたら単純に計算して1000分の1になってしまう。そんな気が散っていて、一人あたりにほとんどエネルギーを割けない状況では大したことができない。どうしても省エネとなってしまう。
 こういう一人の人を愛することが難しい時代であるからこそ、それは光り輝くのではないか。そんなことをわたしは思う。キリスト教では一人の女性を大切にしなさいと教えて、フリーセックスなど言語道断だと言う。また、わたしがやっているヨガの流派の創始者も同じようなことを言っている。たしかに、たくさんの女の子たちと好き放題にセックスするのは簡単と言えば簡単だ。容姿がある程度良くてお金があれば、ある程度の数の女の子たちとやることはできる。でも、それでは得られないものが一人の人を大切にすることにはあるはずだ、と。うむ、星さん急に真面目になりましたね。人として成長しましたね。いろいろな人生経験(と言ってもそんなに経験はないけれど)を経てその境地にたどり着いたのですね。ヨシヨシ、成長しましたね。お父さんは嬉しいですよ(ってあなた誰?)。
 最近のことを話すと、急に彼女がほしくなってきた。そして、熱烈に愛したくなってきた。そんなことを考えるようになったせいなのか、今のわたしにとってはポルノとかどうでもよくなってしまった。そんな二次元の画像なり動画(これらには奥行きはなくて立体ではないですよね)なんて見ていても仕方がない。それよりも、生身の女の子と向き合いたい。向き合って、いろいろと楽しく過ごしたい。いろいろなことをやってみたいし、体験してみたい。
 こういう気持ちはポルノを見ていた時にはまったくわいてこなかった。だって、現実の女の子を苦労して手に入れなくても、ちょっとネットのアダルトサイトを見たり、HなDVDを見れば、そこには超絶美少女なり美女が裸で待っていてくれているのだから。となれば、どうしてそんなに美人でもない現実の身の回りの女の子のために奔走して頑張るのか、となってしまう。
 最後にポルノを見た時には、何だかすごくわざとらしいなって思った。そして、ものすごく気になったのが男優が激しく突きすぎだろ、ってこと。あんなにガシガシ、ガンガン、ガンガン突かれて女優さんたちは痛くないのだろうか。もしかしたら突いている男優さんの方も結構痛かったりして。こんなにプライベートでは激しくやらないけれど、ビデオとして成立させるためにはこれくらい過剰にやった方がいいのではないかとか思ってサービスしてくれているのかもしれない。
 わたしが浄化されてきたせいなのか、ポルノに出ている女優さんたちが物として扱われているようにも見えてきたわけで、とにかく男が性欲を発散することしか考えていないように見えて仕方がなかった。女性が大事にされずに粗末にされているのではないかと、ただ性欲のはけ口にされているだけなのではないか。そんなことをいろいろ思うようになってきたのだった。
 と、いかにも清くなったようだけれど、禁欲生活を送っているわけではなくて適度に出してはいる。その時のオカズはチラシの広告に載っている下着姿の女性くらいでとても低刺激だと思う。普段ポルノを見ない生活を送っていて、見てもその程度だから、少しの刺激で満足できるようになってきている。今までのようにどんなにハードなポルノを見ても抜けないなんていうことにはなっていなくて、おだやかな健康的なやつで十分なのだ。だから、着衣姿でも(普通に洋服の広告に載っている服を来た女性の写真ね)十分立派なオカズにできるくらいにまで感度が回復した。
 ささいなこと、何でもないようなありふれたこと。つまりは少ない刺激で喜べる。そんなに豪勢に贅沢なものにしなくても満足できる。それこそが幸せな状態ではないかなって思うのだけれど、どうだろうか。
 やりたい放題、好き放題のこの時代に一人の女性(ひと)を愛して愛して愛し抜く。これこそ性的な意味においても、たくさんの子孫を残そうとするオスとして本能に抗うという意味においてもとにかく一番難しい。
 いや、それよりも難しいのが生涯にわたって禁欲生活をすることですよ、というのは分かっている。でも、それは凡人には無理だろうと思うし、これまでのわたしの様子から言ってもわたしには無理!
 これからわたしはどうなっていくのか。いや、どうしていきたいのか。ポルノから離れた今、新たな生き方をしていこうと思っているところ。そのためにも仕事を見つけたほうがいい。
 いい方向に変わってきたような気がする。

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