疑う。人は確実なものを手に入れるために目の前のものを一つ一つ疑う。
そうして疑っていくと何も残らない。熱心なクリスチャンだった頃のわたしにそのことを尋ねれば「神様とイエスさまです」と即答していただろう。けれど、今のわたしには本当に信じられるものがない。
と言いつつも、目の前に展開されているこの世界についてはある程度信じている。もしこれらも徹底的に疑ってしまったら、疑心暗鬼となり普通に日常生活や社会生活を送ることができないだろう。
わたしの住んでいる家、街、母、猫のルル、ヨガの道場、ヨガの師匠、道場の練習生の皆さん、精神保健福祉士のWさん、街や駅ですれ違う多くの人たち、木々、道、信号、電信柱。とりとめもなく列挙していけばわたしはこういったものの存在を信じている。でも、これは夢なのではないか? そう思った途端にこの世界はガラガラと音を立てるまでもなく消え去って雲散霧消してしまう。
すべてが、この夢ではないかと疑うことのできる空間、時間の中にあるからには、そこで展開される哲学や思想などもこの世界が夢なのであればそれもまた夢でしかない。
わたしは本当に信じることのできる絶対確実なものがほしかった。これは絶対正しい、絶対安全、絶対大丈夫というような何かを。
けれど、この現実だと信じている自分やこの世界が夢幻ではないと証明することはどんなに頑張ってもできそうにないし、そもそも無理な話だ。
だから、最後は無力だけれど何かを信じるしかない。その結果裏切られるのかもしれない。でも、人は何かを信じなければ生きていくことができない。
すべてはまやかしなのか? 夢なのか? 答えは出ない。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。