キリスト教の勉強、それも特にキリスト教神学を学んでいた時に感じた疑問をふと思い出す。インド哲学のヴェーダーンタの本を読んでいるとキリスト教神学にすごく似ているところがあるのだ。
で思ってしまうのが「それ本当? それって事実なの?」という疑問だ。
たしかにこれがこうで、こうだからこうだ、といった具合に首尾一貫させて論理的に考えて答えを出してはいる。でも、その言っていることのどこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのか? いや、全部フィクションであって虚構でしかないのか? なんて疑いながら読んでいると、らちが明かないことに気付く。というか、その理屈の根拠となっている聖典がそもそも正しいのか、といったことさえ不明確なのだ。だから、キリスト教神学もヴェーダーンタも土台となっている聖書、聖典が崩れてしまえば、もう意味をなさなくなる。
もしかしたら、両者とも知的な理解は必要でありながらも、その土台の聖典の権威を信じることが必要なのではないか。でないと話が始まらない。
ヴェーダーンタもキリスト教神学と同じように様々な立場があり、それらが対立しているのは、その是非を判断する具体的な方法がないからなのだろう。わたしにはどうもフワフワしているように思えてしまう。
真理とは感じて、信じるものなのかもしれない、なんて言ってしまっていいのかしら。空中楼閣なのか、事実なのか。分からないなぁ。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。