こんな人でいたい

いろいろエッセイヨガ
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 今日は日曜日。教会へ行っていないわたしは午後、図書館へと出掛けた。図書館があるのは街の中心部で、人が多くて日曜ともなれば家族連れでごった返す。
 家族連れ。何だか彼らの幸せそうな様子を見ていると自分がダメ出しをされているような気分になってくる。わたしにはパートナーがいなくて、もちろん子どももいない。結婚せずに独り身でいることが悪い、とまではいかなくても、日曜に家族みんなで出掛けている様子はわたしに引け目を感じさせる。
 本を返して、スーパーで買い物をして自宅に到着。が、いかんせん疲れていて、さらには家族連れを見て劣等感を感じて少しイラついていたものだから、お帰りの「ただいま」が少し無愛想だったのだろう。母が「どうしたの?」と訊いてくる。それにどう答えたのかは覚えていないのだけれど、それから夕食になった。
 母と夕食を食べながら話をしていたらかなり気持ちが落ち着いてきた。自分の方向性と望むあり方が見えてきたからだ。
 ふと思ったのは、世の中にはすごい人がいるものだけれど、実はそんな世に出ている有名なすごい人なんてまだまだで、もっとすごい人がいるのではないか、ということ。世間に知られず、自分のやっていることなんかを世に知らしめようとしたりせずに、ひっそりと生きている。でも、その人の知的レベルだったり能力などは、その道の一流と言われる人を軽く超えていて、違う次元まで到達している。
 表舞台に立ってスポットライトを浴びることを批判したいわけではないものの、よくこんな人がいる。
 わたしはこういうすごい学歴です。わたしは本を何万部売りました。何々賞を受賞しました。YouTubeで動画が何十万回再生されました。こういう人に自慢できる実績があります。
 たしかにそれはそれでいい。そういう生き方もある。けれど、一方でほとんど誰にも知られずに我が道を進んでいる人もいる。今のわたしにはそうした人の方が格好良く素敵に見える。世の中にはほとんど影響らしい影響は与えていない。けれど、そんな「わたしすごいんです」と見せびらかしている人よりもそういう人の方が深みがあるのではないか、という気がする。
 自分が何かをする。その自分の行動によって、お金を得ることができたり、名誉や名声を得ることができる。それだったらやるのは当たり前というか見返りがあるのだから自然なことだ。でも、見返りがないのに、ほとんどないのに、それでもやる方が格好良くないか? それをやっても1円にもならない。やったところで評判が良くなったり、自分の社会的な地位や立場などが上がるわけでもない。けれど、それでもやる。なぜなら、やりたいから。
 そうしたあり方がどこまでも徹底されていくと、神に捧げるような生き方へとなっていく。見返りは求めない。結果も期待しない。いい結果を得てもそれは自分のものにしないで神様に捧げる。
 わたしがまだまだ自分のことを青いと思ってしまうのは、自分のやることにいちいち見返りを求めていて、結果をも期待しているからだ。そして、見返りが得られなくて、望んだ結果が得られない時、落胆したり怒ったりする。要するにわたしの中に強いエゴがしっかりと残っていて、「わたしが」「わたしの」という意識から卒業することができていない。わたしがこれをやった、あれをやった。これはわたしのもの、といった具合に自分中心であるあり方。この「わたしの」「わたしが」を手放せた時、初めて敬虔な生き方ができる。キリスト教にしてもヨガにしても、わたしという意識が残っているうちはまだまだで、それを神様に明け渡せるかどうかが霊的な成長において重要なことだったりする。
 少し前のわたしは自分のブログやSNSの反応がさっぱりなのを気に病んで落ち込んだり怒ったりしていた。でも、今ではこう思う。本当にそのことついて分かっている人が認めてくれればそれでいいのではないか、と。たとえそれがたった一人であっても。こういう言い方をすると見下しているなどと言われてしまうかもしれないけれど、分かっていない人たちからいくらたくさん「いいね」と認めてもらえてもそれはほとんど意味がないと思うようになったのだ。極端な話、人気を得ることだけを考えるのであれば、多くの人たちが今、何に興味関心を持っているか調べて傾向と対策をすればいいだけの話だと思う。もっと言うなら、わたしの場合、こんなエッセイブログなんてやっていないでアダルトサイトでもやった方が断然アクセス数は得られる。みんながアダルトなものに興味があるのは明らかだからだ。
 絶対に作家などが言わないこと。それは「無知で何も分かっていないあなた方に分かってもらえなくて結構」という言葉で、この言葉を言ったが最後、その作家の本は売れなくなるだろう。しかし、多くの作家はそう言わないまでも胸の内では思っている(はず)。人気稼業の彼らにとってはその「分かっていない人」も立派なお客様なのだから、あえて読者を限定してしまうことを言うのは得策ではない。
 とまぁ、いろいろ書いてきた。けれど、100年後には今生きている人たちはみんな死んでいる。だから、わたしがどんな人になったとか、誰かがどんな人になったとか、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。どんな人になるか、ではなくて、それよりも今をどう生きるか。今というこの瞬間をどう生きるか。それに始まり、それに終わる。いや、わたしはそれだけだとさえ思っている。なんて言ってもこの言葉は伝わらない人には伝わないだろうし、それならそれでかまわない。何もみんなに分かってもらえなくてもいいのだ。わたしは自分の教えを教祖にでもなって広めたいとか思っているわけではないし、そうすることで人類を救済しようなどと大それたことは考えていない。細々と細々とこのしがないブログで中身のあることをただ書いていくだけ。
 承認は数ではなくてその質だ。数が少なくてもその質が高ければ何ら問題はない。反対に数がどんなに多くてもその一つひとつにおいて質が低ければ、そんな承認をどれだけたくさん得たとしてもむなしいだけでしかない。有名芸能人が自殺している。あんなに有名で多くの人から愛されていたにも関わらず彼らは死んでしまった。その多くの人たちからの承認は最後の最後でその人にとっての支えとはならなかったのだろう。たった一人、たった一人でいいから、その人を本当に支えるような承認が得られたらそれに勝るものはない。
 わたしは今にいたい。今にいて、今を生きていたい。それだけでいい。輝かしい未来などやってこなくても、たくさんの実績などを残せなくてもそんなことはどうでもいい。それよりもただ今、この瞬間にいて、今、このたった今を生きたい。そうしていけば、まるでおまけか何かのようにきっと輝かしい未来もやってくるだろうし、人生が充実しているわけだから実績だってしっかりと残せていることだろう。でも、それはおまけでしかない。それよりも、今なのだ。
 今にい続けるのは案外難しい。どうしても今から外れてしまって自分の意識が未来や過去へと向いてしまう。その度に、まるでヨガをやっている時に集中力が切れてしまったのをまた現在に戻すかのように、しっかりとまた今へと意識を戻す。この調子でやっていきたい。今回の記事、辛口だったかと。辛口御免。

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