ビジョンを持てとか言われてもねぇ

いろいろエッセイ
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 昨日、YouTubeの動画を観た。その動画はある精神科医のもので、その動画ではビジョンを持つことの大切さが語られていた。その人はものすごくハッキリとした人でビジョンを持て、と言う。
 けれど、ビジョンを持てない人がほとんどではないかと思う。ビジョンを持ち、それに邁進している人はとてもエネルギッシュでいいとは思う。でも、みんながみんなそんなことができるわけではない。
 だいたい、その精神科医だっていわば勝ち組なんじゃないかと思う。医者は社会的にもすごくステータスが高くて、収入だって普通の人よりはいい。で、その勝ち組にいる人間が、下にいてもっと上がっていきたい人にこうするといい、ああするといいとアドバイスをして、そうすることでお金を生み出しているのだ。
 わたしはその動画を観ている時は、「なるほどそうだよなぁ」「たしかにそうだ」とウンウン頷いていたのだけれど、終わり頃になったら何だかすごく自分がダメ出しされているみたいで苦しくなってきた。変わりなさいというメッセージは要するに「今のあなたのままではダメだから変わりなさい」ということであって、たしかに進歩向上を目指している人には有益であっても、特に目指していない人や目指すだけの気力がわいていなかったり、持ち合わせていない人には余計な雑音だったりする。
 ビジョンを持つとたしかにいいことがある。自分の生きる方向性がハッキリとしてきて、ブレなくなるし、その一つの目的へと邁進していくことができる。そうすれば、寄り道とかわき道へそれることもないから、最短で目的地へとたどり着くことができる。
 でも、別にビジョンが持てなくてもそれはそれでいいと思う。というか、みんな一人ひとり違うのだから、万人がビジョンを持つべしなんてわけにはいかないはず。ビジョンを持たない方がかえってうまく行く場合だってある。
 なんて、そんなことを言っているからお前はいつまで経っても無職なんだよ、と言われそうだ。たしかにわたしは無職で働いていない。そして、障害年金をもらっている年金暮らしだ。世間から見ればダメな人ということになるだろう。そんな無職の精神障害者が何を言ったところで、いや、言うばかりでなく吠えたところで、世間の人は何も聞こうとはしてくれないだろう。つまり、説得力がないんだよ。説得力が。自分でも分かっている。わたしの言うことは、結局坊やの戯言なのだ。世間のことなど何も知らず、荒波にも揉まれたこともない、そんな無知な人間。そんな人間の言うこと、やること、なすこと、どれもどんなにいいことを言おうが、いいことをやろうが「無職が何を言っても説得力がない」「どうせ無職なんだろ?」で終わってしまう。
 ビジョンを持ち何かに向かって全速力で駆けている。一生懸命毎日をエネルギッシュに生きている。キラキラしている。夢があり、ビジョンを持っていて、ブレないで突き進んでいる。そんなアドレナリン全開の人間。素晴らしいのかもしれない。特に頑張る人がほめたたえられるこの日本では評価されるのかもしれない。でも、それが果たして本当にいいのか?
 新聞を見れば、活躍している人やハッキリとしたビジョンを持った人が所狭しと記事として載っている。反対に活躍していない普通の人のことなんかほとんど載っていない。
 活躍している人は「お前もやれよ」みたいなことを平気で言う。そうすればうまくいくから。人生もきっとうまくいくから、と。
 などと、うだうだ書きながらあることに気付いた。何でみんなで画一的な競争をしているんだろう、ってね。お金をどれだけ稼ぐか、どれだけ身体能力を高めるか、どれだけ健康になるか、といった決まりきった基準での競争。何かそれが何が何でも素晴らしいもので、それ以外にはないとでも言わんばかり。
 と終わり。もうノイズはいい。ノイズは十分。ああせよ、こうせよ、これをやるべし、これをやらないとまずい。そういったノイズを一旦、脇に置いておく。ノイズを遮断して自分自身の内側へと意識を向けていく。本当はわたしは何を求めているのだろう? 何をやりたくて何をやりたくないのだろう? そんなことを考えてみる。そうして考えていくと、自分がやりたいと思っていた、いや思いこんでいたことが誰か他の人にとってのやりたいことでしかなかったのだと気付かされる。本当にやりたいこと。もしかしたらないのかもしれない。やりたいことなんて正直に自分の心に聞いてみるのなら特にないのかもしれない。それを無理矢理、「わたしはこれをやりたいんです。こんなビジョンを持っているんです。こんな夢があるんです」などと無理をして作っていたのかもしれない。いや、本当にわたしはこれをやりたくて、こんな夢があって、そのためにはこれをやっていきたいんだとハッキリしている人も中にはいるのかもしれない。そんな人はその調子でその夢やビジョンとやらをかなえていってくれればいい。でも、本来ビジョンなんてなくて当たり前じゃないかって思う。だって別になくても死なないから。動物である人間にとって死ぬことに直結するのは、衣食住と後は子孫を残せないことくらいなもので、それ以外は無駄とか装飾品みたいなもの。
 今から100年後には今生きている人たちはもうこの地上にはいないのですよ。さらには、人はいつ死ぬのか分からなくて、下手したら明日死ぬかもしれないのですよ。こうした当たり前のことに思いを馳せてみることが必要じゃないかって思う。そう考えてみると、わたしの場合一つだけやり残したことがある。これをやらずに死ぬのはとても惜しいというくらいやり残した感があることだ。それは今力を入れているヨガでもなければ、読書でも勉強でも執筆でもお料理でもない。でも、それをやらないで死ぬことだけは避けたい。そんなことがある。ビジョンを持つことも大切かもしれないけれど、それよりもこうした人生においてやり残したことをやることの方が大事ではないかと思う。それをやっておかないと死ぬ時にきっと後悔する。何でそのことができた時にやっておかなかったのだろう、って。
 と言いつつもおそらく明日も明後日もそしてあと数十年後にもわたしはまだ生きている。だから、あまりにも刹那的に生きてしまうと後々困ることになる可能性が高い(明日死ぬかもしれないからと有り金を全部使ってしまうとか)。ま、ぼちぼちやっていきましょうってことになるのかな。やらずには死ねないことをやるプランをも着々と練りながら、それと同時に長く生きても困らないようにできることはやっておく。特にこれといった明確なビジョンなんてなくてもいいから、とりあえず困らないようにはしておく。
 ビジョン、ビジョンってさもそれがあることがいいことであるかのようにみんな思っているようだけれど、ビジョンが特にないというのも立派なビジョンではないかと思う(何か言葉遊びみたいだけれど)。わたしにはビジョンがないんです。はっきりこう生きたいっていうのがないんです。現在と将来未定なんです。それでも構わないとわたしは思う。でも、一旦そういったものがないのなら何もやらないで静かにしているというのも手かもしれない。そうしたらビジョンは持てなくても必ず退屈してきて何かをやりたいと思うはず。逆に、人生80年、やりたいことがなくてひたすら寝てましたっていう猛者っています?(それも別の意味でビジョンがあるのだと思うけど。何もしないで寝ているっていうハッキリとしたビジョンがあるよね)だから、退屈してきてやりたくなったことが案外その人にとってのやりたいことなのかもしれないなとも思う。それがビジョンにまでは至らなくてもね。
 本当はそのことをやりたいとは思っていないのに、それをやりたいと思っている理想の自分を作って演出して人に見せようとするのは苦しい。それには必ず違和感がつきまとう。ビジョンも同じでそんな偽りのカッコつけのためのものだったら持たない方がマシだと思う。そうではなくて、本当にやりたいことをやる。見栄とか人からどう見られるかとかそういうことではなくて、自分に正直にただただやりたいことをやる。だから、もしもやりたいことやビジョンが特にないのだとしたら、それだって立派なその人らしさなのだから、無理してそれがさもあるかのように振る舞わなくていい。
 ビジョンを持つかどうかではなくて、自分に正直に、自分自身の求めるところに従ってやっていく。そうしたら結果的にそれがビジョンへとつながっていくのかもしれないし、ビジョンにまでは至らず終わるのかもしれない。ビジョンがあるブレない人はカッコいいけれど、ビジョンがなくてブレまくって最終的には訳が分からないまま人生が終わるというのもそれはそれでありだと思う。そして、どちらの人生であってもそれらの間には優劣などはない。死後の世界があるかどうか、来世があるかどうかはともかくとして、死んで骨になってそれで終わり。どんな人生であってもそれはそれだけのことでしかない。成功しようが失敗しようが、人からほめられようが人に迷惑をかけてばかりだろうが、それらは等しく平等なもの。なんて言ってしまっていいのかわたしには分からないけれども、そんな気がする。だから、死ぬ間際に後悔しないように生きていきたい。さぁ、ぼちぼちやっていこうか。

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