星のアシュタンガヨガ日記 第10回「『ヘッドスタンドに数年かかる人もいる』ってホンマかいな?」

星のアシュタンガヨガ日記
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 良い子のみなさ~ん、元気にしてましたか? 星お兄さんのアシュタンガヨガ日記の時間だよ。お兄さんと言いながらももう40のおっさんの日記の時間だよ。みんな寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。一人入場料300円だよ(って金取るんかい)。
 冗談はそれくらいにして行ってみましょう。わたしがアシュタンガヨガを始めたのが10月の終わりだからもう3ヶ月。何かなぁ、すごく濃くて、そう、活動が。だから、まるで数年前から街へヨガをやりに始発に乗って行っているような気がするのだけれど、まだ3ヶ月なのでしたね。3ヶ月。別に走馬燈がどうのこうのと言うような少年マンガのフレーズを使うほどのことでもなく、まだ3ヶ月なので走馬燈も何も浮かんではきません。
 さて、現在のわたしの進捗状況はあれから何も変わってはおりません。ただただ練習している感じです。その日々の練習の中で時々先生から注意されてポーズの細かな部分を直してもらったり、アドバイスを受けることはあるものの、それだけで何か新しいポーズを与えられたりといったことはないのだ。そういうわけでマンネリ化して飽き始めていると思いきや、そうではなくてだいぶ自分で言うのも何だけれど、様になってきているような気がする。何か動きがアシュタンガヨガっぽくなってきたというか。だんだんやっている人の動きになってきたと言いますか。ともかくあれから新しいポーズが与えられないこともあって、自分自身、今できるポーズを深めることができている。そんな感じだったりする。
 今日も挑戦しました、ヘッドスタンド。が、じぇんじぇんできる気がいたしません。ふざけているように聞こえるかもしれないけれど、ぜんぜんではなくてじぇんじぇんという感じなのです。それほどにヘッドスタンドができるようになるまでの道のりは果てしなく遠く険しい。そのことを痛感した次第なのであります。というか、そもそも倒立さえできないからね、わたしは。そんな運動経験に乏しいわたしに果たしてあのヘッドスタンドができるようになるのか。いやはや、謎であります。
 となれば先生に聞くしかない。
「先生、みんなヘッドスタンドには苦戦する感じですか?」
「すぐできる人もいるけれど、かかる人だと数年かかる人もいるね」
 数年? あーどっこいしょ、どっこいしょ。ソーランソーラン、すーねん、すーねん。なんてつまらない言葉遊びはともかくとしてかかる人だと数年かかる場合もあるというヘッドスタンド。が、わたしは先生曰くカメとウサギで言うならウサギとのことなので、そのウサギの星さんは「数年も待っておれん」と今や今やと急いで最短距離を突き進むことを画策している模様。どうにかして数年もかけないでできるようにならないものか。な~んてすぐ結果を求めてしまうところがウサギである所以だったりする。ウサギだからすぐゴールに着きたいのよ。寄り道なんてしてないで最速で最短距離を突き進みたい。ってそれはヨガの精神に反するでしょう。で、先生のその後のセリフがいい。「焦らずやっていきましょう」。かーっ。焦らずって焦っているんですけど。毎月のレッスン代と交通費の分のもとはしっかり取るんだ。でないと、丸損してしまう。って、オイ。またもや、オイ。全然ヨガの精神を分かっていないじゃないの、まったく。
 というわけでヘッドスタンドがいつできることになるやら未定の星さんなのであります。ってまだ始めて3ヶ月だろ。何かこのわたしの上昇志向においてはもう来月にはヘッドスタンドができるようになっているような、そんな感じがしているのだ。アシュタンガヨガ歴4ヶ月でヘッドスタンドができます。ってそれを誇っていいのか。オイ。オイっ。違うだろ、それは。そうではなくて長く続けていく中で精神性を高めていく。そのためのアーサナ(*ヨガのポーズのこと)だろ。まったく、もー。
 でもね、ヘッドスタンドはまったくできる気がしないけれど、できるようになったのがあるの。聞いて、聞いて。そう、何を隠そう(って隠してはいないけれど)でんぐり返しができるようになったのだ。それも普通に。あの以前にも書いた魔のでんぐり返しが、2回もやろうとして背中を痛めたでんぐり返しが今、普通にできとるのであります。これってすごくないですか。すごくね、すごくね? すごいっしょ? まぁ、そんなわけで成長しているのだ。前全くできなかったアーサナができるようになっていたりするんだから、すごいと言えばすごい。
 それからマリーチアサナのBもできるようになった。これもすごくね、じゃないですか?(日本語が乱れておりますな)以前はできなかったのに、気が付いたらできるようになっている。これは進歩、成長、躍進、前進。とにかく先生曰く「練習は裏切らないね」とのように事態が展開しているのです。一生懸命練習すればそれなりに結果はついてくる。ただその結果をあからさまに求めるのではなくて、できたらいいなと思いつつもそのことに執着しないようにすることが大事。
 さらには、ブリッジもわたしの様子を見ていた先生が挑戦してもいいと判断したのか、「やってみてください」と指示が出たのでやってみたら何とできなかった(笑)。って、オイ。できなかったのかよ、オイ。期待させといてできず終いで何なんだよ、オイ。一瞬期待させたこの気持ちを返せよ、オイ。でもね、できそうな気配が濃厚にしているんだ。あともう一歩みたいなね。前は全然体が持ち上がりそうもなかったのが、あともう一歩みたいな感じなのね。これはもう少し筋力がついてくればできるようになるのでは? 期待が高まる。で、またしてもできない(笑)。オイ。オイ。できそうでオイできないオイ(意味不明)甥老い追い負い、なんてオイを漢字変換してるんじゃない、オイ。どうやらオイが壷にはまった模様。この様子を今や世間を騒がせているお笑い芸人の松本人志さんだったらどう言うだろうか。以前、歌手の安室奈美恵さんがお笑いを真似して笑いを取ろうとして今一つですべりそうになった時、松本さんが言った一言。「安室さん、お笑いって難しいんですよ」。今その言葉がなぜかわたしの脳裏によみがえっている!! まっちゃん、お笑いは難しいのですね。わたしも心しておきます。って全然関係ない話して脱線しておりますこの文章。着地点はどこに? どこに着地するのか、だいぶ足下を荒らしちゃったぞ。
 はい、でんぐり返しと。くるりん、と。
 というわけで、全然、話変わるけど、今日先生に欲望について質問したんだ。そうしたら聖典に書いてある欲望を捨てろというのは無駄な欲望を捨てろということだと思うとのこと。で、いろいろ言葉を先生と交わしてやりとりしたら、欲望の自分にとって心地いいところが見つけられるといいんじゃないか、ということも言ってくれた。そして、その欲望をどの程度充足した時に満足感があるかというのは人それぞれ違うから、自分自身でそれを見つけていくしかない、とも。先生は何ていうか原理主義者ではないみたいで、聖典に書いてあることを一字一句守るべしみたいなことは言わなかった。現代を生きていく上で時代的に合わない教えというものもある。だから、聖典の教えを現代に合うように変えていく必要があるとも言っていた。これってキリスト教でもよく議論されていることで、聖書の教えをかたくなに守るか、それとも大切なことは変えないようにしながらも時代に合わせて変えるべきところは変えていった方がいいと考えるか、で対立しているところなんだ。保守主義と自由主義の対立みたいな構図ね。そうか、ヨガでもその対立はあるわけか。まぁ、保守的な人だったらヨガにネットだのパソコンだのDVDだのを持ち込むなど言語道断なんだろうな。そういうわけだから、すごくわたしのお師匠さんは現代的な感性を持ち合わせていて、柔軟な人のようだ。さらに先生はこんなことも言った。だからこそ、現代のグルが必要なんです、とも。と言われてもわたしはまだまだヨガの文献はほとんど読んでいない初学者だから、全体の見取り図を把握できていない。うむ、これから読んでいこう。でも、師匠がいるのは有り難い。独学していて行き詰まった時にそこから抜け出す手助けをしてくれる人がいるといないのとでは違う。有り難いなぁ、本当。
 それにしてもわたしはよく練習中に足をつる。それも先生に教えてもらっている時に限ってつる。だから、「大地さん、足をよくつるけど水分とか1日にどれくらい飲んでる?」って聞かれたほどなんだ。それにしてもよくつります、本当。「足、つりました」って先生に何回言ったことか。まぁ、体が固いのと、おそらくは慣れないやったことのない新しい動きをしようとしていたからでしょう。だから、つったんだよ。きっと。1日に3リットル以上は水を飲んでいるわたしだから水分不足ではない、と思う。まぁ、わたしの推察するところが原因じゃないかなってね。
 あぁ、ヘッドスタンドできるようになりたいなぁ。憧れのヘッドスタンド。できるようになるのか。一体いつ頃になったらできるようになるの? いやいや、それは未定だから面白いのでしょう。できるようになるかどうかそれ自体も不確かで定まってはいない。未来に必ずできるようになるという保証はどこにもない。だから、元を取る。ってオイ。って老い(漢字変換を意図的にミスしてまさに、「わざわざ」って太宰治の人間失格なんじゃないんだからさ)。というかね、もう元を取るどころかそれ以上のものが与えられているじゃないですか。その恩恵を無視して元を取るだぁ何だ言ってるのはヨガの神様に失礼でばちが当たるよ。まったくもー。
 アシュタンガヨガを始めて自分で言うのも何だけれど体が強くたくましくなり、心も同時に大らかになり大きく少しのことでは動じなくなってきた。それだけで、それだけでかけた費用以上のものは得ている。世の中には大金を投じて健康になろうとしたり、病気を治そうとしたにもかかわらず、お金を失っただけで徒労に終わったという人が少なくない。そんな中でわたしはしっかりとヨガの神様からのギフトを得ている。もらっているんだ。だから、感謝した方がいい。わたしがヨガができることに。日本が戦争をしているわけではなく、わたしが精神的に錯乱しているわけでもなく、先生からの指導が知的な障害などがあって理解できないわけでもなく、身体的な障害などがあって体を動かせないわけでもなく、経済的に困窮していてヨガを習うだけの費用を用意できないわけでもなく、もっと言うならヨガ自体と出会うことさえもかなわなかったわけでもなく、こうして本物のヨガと出会うことができて練習する場所が与えられて師匠にも恵まれている。そう考えると街へ始発の電車に乗ってヨガをやりに行けることそれ自体が恵みだということが分かる。何てありがたいことか。ヨガができることに感謝する気持ちを忘れないようにしたいと思う。
 だからヘッドスタンドができるようなりたいとはもちろん思うけれど、いつまで経ってもできないのならそれでもいい。たとえできるようにならなかったとしてももう既に溢れんばかりの恵みをわたしはヨガから受けているからだ。でもだからと言ってどうでもいいという態度ではなく、できるようになろう、なりたいという気持ちでやっていくのは言うまでもない。2年越し、3年越しのヘッドスタンドなんていうのもいいかもしれない。あるいはどうしても、何年やってもできるようにならないんです、というのもそれはそれで味があって面白いかもしれない。こだわらない、執着しない、結果を求めてそのことばかり考えない。そんな調子でやっていったら、努力がいつしか報われてヘッドスタンドができるようになっていた、なんていう奇跡が起こるのかもしれない。憧れのヘッドスタンド目指して、地道に日々のアシュタンガヨガの練習をやっていけたらと思うわたしなのだ。
 アシュタンガヨガの創始者のパタビジョイス先生はこう言う。「練習せよ。そうすればすべてはやってくる」。そう、すべてはやってくる。とにかく継続あるのみ。やっていくぞ~。

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