まぁ、いいんでないの

いろいろエッセイ
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 我が家では新聞を取っている。が、その新聞を見るとわたしは腹が立ってくる。だったら見なければいいだろ、でいいのか。それともそんなんでは国民の義務とやらを果たせていないのか。
 もし新聞をやめたら、テレビ、ラジオも最近は全く見ていないから自主的な鎖国状態となる。鎖国していいのか、良くないのかと葛藤は続く。けれど、新聞を取っていると言っても、その一面をチラっと一瞥するだけでしかないのだから、取っても取らなくても同じと言えば同じなのかもしれないけれど。
 今日も新聞の紙面では、権力者や力のある人たちが好き放題、好き勝手にやっている。でも、そのことに対して声を荒げて怒りを発したところで何か変わるわけでもない。わたしの影響力からすればこのしがない底辺ブログで人知れず吠えているくらいのことしかできない。うー、寂しいと言えば寂しい。
 けれども、このほぼ誰かに甚大な影響力を行使することなどないこの生活も満更捨てたものではないどころか結構気に入っている。というのは、お金をもらうということ。それもたくさんもらうことには重い責任がつきまとってくるからだ。わたしが大好きな国民的女優の広末涼子さんが不倫をしてものすごく叩かれて干されているのだって、要はお金が絡んでいるからなのは言うまでもない。広末さんが年収いくらくらいで、どれだけ稼いでいるのかその具体的な金額は公表されていないし、広末さん本人とか所属する事務所くらいしかそのことを知らない。あと、税務署くらいかな。広末さんは稼いでいた。自分の顔をさらけ出して、プライベートさえも犠牲にして、自分自身をブランド化して売り出していた。そして、それによってものすごく高額な収入を得ていた。だから、そのみんなのイメージだったり、期待だったり、理想像だったりをぶち壊しにするとみんな怒るわけだ。もっと言うなら「金返せ」ともなりかねない。
 一方のわたくし星はのほほんと毎日を過ごしております。責任とか使命とか、こうあらねばならないとかいった重圧から解放されていて、一市民として暮らしております。責任? ほとんどないよね。あるとしたら、毎日お料理を作っている中で、不味い料理を作らないとか、日本の法律に違反しないとか、それくらいのことだけであって、あとは本当に気ままに暮らしている。一市民の特権。それは有名でないからできている気ままさや気楽さであって、とてもありがたいなぁって思っている。
 そんな責任とは無縁な日々を送りながら思うことは、ま、これもいいんでないの、ということでありだということだったりする。
 が、そんな働きもせず、汗水流さなくてもやっていられている障害者などを良く思っていない人たちというのは一定数いる。どうしてかと言うと、障害者がタダ乗りをしているだけのずるい人間にしか見えないからだ。で、どうしてそう見えてしまうかと言えば、自分が苦しくて大変な思いをしているから。必死で毎日安い賃金で生活の糧を稼いでいる人から見れば、そういった努力や苦労などもしないで必要最低限度の生活を送れている人たちというのは憎らしい。そして「おまえら働け」「働かざる者は食うべからずだ」と言いたくなってくる。けれども、そもそも考えてみれば、そういった不満は政治とか社会に対してぶつけるべきであって、何も社会的弱者自身に直接ぶつけることではない。この社会システムのあり方が気に入らない。だったら変えようとすればいいのだし、文句なり苦情なりをしかるべき所に訴えればいい。でも、そんなことをしてもおそらくは世の中は変わらないだろう。なぜなら、そういった不満を抱いている人というのは社会一般からしてみたらどちらかと言えば少数だから。多くの人たちは、フルタイムで正社員として働いて仕事をしていて、それなりに責任ある立場にあり、そこそこ稼いでいる。だから、言うまでもなく日本は1億総非正規労働社会などではない。みんなそこそこ収入を得ている。そんな感じだから非正規労働の問題が生じようが、それは自分には関係のない対岸の火事でしかなくて、そのために非正規労働を撲滅させようとか、もっとそういった彼らの賃金を倍増させようなどという話は進んでいかないし、通っていかない。まぁ、言うまでもなく自分と関係のないメリットのない話に人は熱くはならないのですよ。そう、それだけのこと。それよりは自分に関係のあるうまい汁だったり特権だったりを手放さない方が道理にかなっている。いわば、唯物論的な拝金主義がまかり通っているということなんでしょうな。
 そういうわけだから、結局弱い者が強い者を叩こうとはせずに、弱い者がさらに弱い者を「おまえら働け」とか「タダ乗りしてるんじゃねえぞ」と叩く感じの醜い構図となってしまっている。本当は社会の仕組みだったりシステム自体に問題があるにもかかわらずにね。
 一般的に強い人というのは頭が良くて能力が高い人が多いから、責任を問われたり攻撃されたりした時のかわし方というのが実にうまい。のらりくらりとうまいことを言って問題を曖昧にしたり、責任の所在を不透明にしてかわしてしまう。一方の弱い人というのは、そういうのが苦手だから叩かれたら叩かれっぱなしでやられっぱなし。
 言うまでもなく、障害者とか生活保護受給者とか叩くって何か世知辛すぎると思うんですよ。それよりは叩くべきはうまい汁を吸い続けている強い立場にある人たちなんでないの、ってわたしは言いたくなってしまう。
 弱い人が強い人に勝つ方法。それは弱い人たち同士で集まって強い人をやっつけようとすることくらい。でも、強い人というのはそれを抑え込むだけの暴力的な力を持っている。だとしたら勝ち目はないのか? いや、ある。弱い人たちが集まってその強い人たちを引きずりおろせばいい。
 なんていろいろと書いてきましたけれど、わたしはそのことに貴重な人生の時間を使っていきたいなどとは思えない。無責任で申し訳ないのだけれど、まぁ、勝手にのさばらせておけばいいんでないの、と思う。でも、横目で見ながらもこれはやばいんでないの、ってなった時には「それはおかしい」と声を荒げる。だって、それすらもまかり通らせてしまったら自分が滅びることになってしまうからね。たとえば、「これから障害年金、生活保護制度を廃止する」とか「日本も成人男子には兵役を課する」とか「消費税を50%にする」とかね。そうなったらやばいっしょ。被害とか影響をモロに受けますよ。もうそうなったら呑気になんかしていられない。何が何でも権力者を権力の座から引きずり下ろさなければならない。そうしないとやばい。
 政治音痴のわたくし星が直感的に言えることはこれくらいで、底は浅くて何か目新しいことを言えているわけでもない。でも、この一市民、ただの一人の人間として暮らすこの日々にもなかなか味わいがある。政治活動をすること以外には(一念発起するなり何なりして)影響力なんて皆無でできることと言ったら選挙に行って1票、票を投ずることくらいしかできないわたし。
 でも、それでいいのだと思う。わたしには国を変えたいとか、国をよくするためには命だって惜しくないとか、そんな愛国心はない。愛国者には怒られてしまうかもしまうけれど、自分が毎日平和に平穏に生きていくことができればそれで構わない。国を良くしたいと思っている人をちらりと眺めながらもわたしはわたしの道を行く。
 わたしにできること。それは毎日をしっかりと生きること。愛する母のために美味しい手料理を毎日欠かさず作ること。自分自身の平安を求めていくために日々ヨガをやり、そういった本をコツコツ読んでいくこと。そして、その決して人様に誇れるようなことなど大してないような平凡な日々から得たこと、気付いたことなどを文章にして数少ない読者の皆様とシェアすること。誰か責任ある仕事や多くの人に影響を与えるプロジェクトなどを手がけている人から見たらわたしのこういった営みはチンケでつまらないものにしか見えないだろう。でも、このわたしの毎日の生活、さらにはその暮らしの中で数少ない人たちに与える影響はそれはそれできっと輝いている。自画自賛のようだけれど、そう思っているし、そう思いたい。
 しがない底辺ブログで吠えているだけ。そう思う人もいることだろう。けれど、わたしがここに今生きていて、たしかにこの21世紀の日本に実在したこと。そのことは誰も変えたり、揺るがすことはできない。わたしはいる。ここにいる。日本で1億2000万、世界で言うなら80億のうちの一人としてわたしは今日も生きている。しがない底辺ブログで細々と吠えながら、この宇宙の歴史、ならびに人類の歴史を織り上げることに加わっている。無力なわたしが誇れることはそのことくらいだろうか。
「まぁ、いいんでないの」とわたしは思いますけど、あなたはどう思います?

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