今日はわたしの誕生日。ということで華やかなパーティーが催されました。招待客は100人くらいで遠路はるばるやってきてくれました。北は北海道から南は沖縄まで。な~んていうのは全部単なる妄想で、我が家には誰も来なかった。誰も来なくて、家には母とわたしの二人と猫のルルだけ。
こんな感じの40回目の誕生日だったのだけれど、特に寂しいとか不満だとかそういう思いはない。ま、これはこれでいいでしょ、みたいな感じで現状を大らかな気持ちで肯定できている。
でも、さすがに何か変わったことがしたくて、ケーキでも買ってきて食べようかとも思ったけれど、わたしがヴィーガン(完全菜食主義)でケーキに使われている卵とか乳製品がダメなので却下。何か甘いものを、となれば残された選択肢は果物か、あるいは和菓子くらいしかない。というわけで、和菓子にしました。って砂糖やめたんじゃなかったのか、星さんはよぉ? なんてことをこのブログの熱心な読者の方は思われるかもしれない。でも、最近わたしは砂糖については完全解禁とまではいかなくても、まぁ、多少、たしなむ程度であればいいんじゃないの、てな感じにしようかと思うようになったんだ。
何にしようか、と思うまでもなくもう既に決まっていた。それはお団子で、最近お団子に凝り始めたのだ。ということはスーパーで100円くらいで買ってきたお団子で決まり、かと思いきや自分で手作りしたのだ。
先日もみたらし団子を作った。白玉粉を買ってきて絹ごし豆腐と混ぜてこねて、こねて、こねて。で、ゆでる。お団子ってゆでるんですよ。知ってました? お鍋にお湯を沸かしてこねて丸めたお団子たちをその中へ投入。で、浮かんできたらさらにもう2~3分くらいゆでる。そして、ざるにあげて水で冷やす。水気を切る。そして、また別のお鍋で今度はみたらしのたれを作る。みりん、お砂糖、しょう油、片栗粉などを入れて焦がさないようにかき混ぜながら火にかける。で、たれの完成~。さらに団子を串に刺して、みたらしをかけたら、みたらし団子の完成なり。意外と簡単でしょう? カレーとか作ることに比べたらまさにシンプルクッキングで簡単にできる。
そんなわけで次はよもぎ団子を作ろうと、つぶあんとよもぎ粉を用意周到に買っておいたから、材料はすべて揃っていた。そういうことでして、本日わたしのお誕生日を彩るお菓子がよもぎ団子となりました、という次第。で、先日作ったみたらし団子も病みつきになるおいしさだったけれど、今日作ったよもぎ団子も癖になるうまさ。つぶあんと柔らかな団子が本当にベストマッチで、これはこれはほめすぎとかそういうことではなくて、とにかく絶品。母と一緒に食べながら「お団子にはまっちゃうよねぇ」とうなずきあう始末。
こう見えて実はわたくし甘党なんです。悪党じゃなくて甘党ね。20代後半の時、一番太っていた頃はジャムをとにかくよく食べていて、くまのプーさんがはちみつばかりなめているように、あの頃のわたしはジャムばかりなめていた。そんな感じだったから当時は今よりも10kgくらいは太っていて、そんな太っている自分が嫌で嫌で仕方がなかった。そこから毎日ひたすら歩いて、食事制限もして、あれだけ大好きだったジャムもやめて、10kgあまり減量。あのダイエットはやればできるという立派な成功体験になりました。
と、せっかくやせて今、60kgちょいをキープできているのに、またあの頃に戻ってしまいそうな嫌な予感(汗)。小太りの方が長生きできるという医学的なデータはちゃんとあって、あの頃くらい(72kg)が一番いいらしいんだ。でもなぁ、今くらいの方がいいなぁ。
なんて、ここまで書いてきましたが、退屈し始めていることでしょう? さっきからためにもならない自分のことをうだうだ、うだうだ。「もういいよ。もっと何かためになることを書いてくれよ。もういかんせん、星の個人的なお話には飽きた」などと単調な長話に読む気もなくなってきた、のかもしれません。そんな殺気まではいかなくても、つまらなそうな読者の皆様のお顔が浮かんできたので、話を元に戻しましょう。
今日はわたしのお誕生日だというのに、100人の友達が来てくれて、大きなパーティー会場を貸し切って盛大に祝ってもらえた、というわけではない。家には誰も来なくて、今この文章を書きながら「静かだなぁ」と思う。でも、悪くないと思う。何かの本で読んだのだけれど、100人の友達が自分の誕生日に駆けつけてくれるという人は、何と3日に1回は誰かの誕生日を祝うために出掛けるそうだ。そりゃあそうだよね。友達が100人もいれば、1年は365日だから単純に100で割ると平均して3日か4日に1回は誰かのお誕生日を祝うために出掛けているということになる。100人の誕生日を毎年祝っている。だから、彼らはそのことへの感謝も込めてその人の誕生日には駆けつけてくれる。と、言うまでもなく大変だなぁと思う。そこまでして自分の誕生日を盛大に祝いたいか?、とわたしなら思う。そこまでしなくてもいい。そこまでしてもらえなくてもいい。ただ、本当に親しい大切な人に祝ってもらえればいい。朝起きると母が「誕生日おめでとう」と言ってくれた。それからよもぎ団子を一緒に食べている時も「誕生日おめでとう」と言ってくれた。何だかその言葉が100人からのお祝いの言葉よりもわたしには重く響いてきた。いいじゃないか。これだけあれば。何が不足なのだろう。大きな大きなバースデーケーキ? 年の数だけロウソクを立てて、ハッピーバースデーの大合唱と共にそれが終わり、ふーっとロウロクの火を吹き消す? 盛大な拍手? それもなくていい。というか、それをどうしてもしてもらいたいわけではない。盛大なお誕生日パーティーが催されることもなく、100人もの友達もいなくて、大きなバースデーケーキも、年齢の本数のロウソクも、ハッピーバースデーの歌も何から何までない。でも、いい。祝ってくれる人がいた。おめでとうと言ってくれる人がいた。それだけで、それだけでもうわたしの誕生日はしっかりと祝福されている。
誕生日、それも一番初めの誕生日にわたしを囲んでいた人は何を思ったのだろうか。両親、そして祖父母は何を思ったのだろうか。きっとというか、それこそ最大級の祝福をしてくれたことだろう。嬉しくて嬉しくて嬉しくて仕方がなかったことだろう。生まれた。誕生した。そして、今ここにいる。「おめでとう」。純粋に何の目論見もなくただただ生まれてきたことを喜んでくれた。誕生日というのは本来はそんな日ではないだろうかと思う。だから、ケーキを食べる日、誕生日プレゼントをもらえる日であることはあるのだけれど、それが本質ではない。自分がその日に誕生したこと、そしてさらには今日これまで無事に生きてこれたことに感謝する日なのだ。となれば、両親への感謝をする日ともなるだろう。特に母親は体を張って命をかけてわたしを産んでくれたのだ(日本では医療が発達してきたおかげで出産時に母親が亡くなることはほとんどなくなってきたものの、アジアやアフリカなどの貧しい国では医療設備や医師などがしっかりと確保できないことから母親が死ぬことが現実に起こっている。子どもを産むことはまさに命がけなのだ)。けれど、そういったことが普通に生きていると抜け落ちてしまう。誕生日にさえ思い出せない。
よく「それは当たり前のことだ」、なんていう言葉をどこかで耳にする。生きているのは当たり前。ご飯が食べられるのは当たり前。住む家があるのは当たり前。両親が生きているのは当たり前。暮らしていけるのは当たり前。でも、よくよく考えてみれば、その当たり前だと思っていて日頃疑いもしないことというのは当たり前ではないんだ。みんな本当はとてもありがたいこと。自分が生きていることだって、それが日常的に続くと感謝することを忘れてしまうけれど、当たり前のことではない。人というのは未来のことは隠されていて知ることができない。一応、こんな感じで明日も来るだろうとか思っているけれど、そういったこともよく考えてみれば、そうなるかどうかはっきりとしたことは分からない。極端な話、明日、太陽が今までのように昇ってくれるかどうかというのは分からない。おそらくは昇ってくれるだろう。今まで昇っては沈むを繰り返してきてくれたのだから。でも、その保証はどこにもない。今まで太陽は昇ってくれて輝いていてくれた。でも、だからと言って明日もそうなるかと言えばそれは分からない。急に太陽の気が変わって「昇るのや~めよ」なんて思ってしまうかもしれない。あるいはもう「自分、太陽やっていることに疲れたんス」とエネルギーを放つことをやめてしまうかもしれない。またはそんなことはなくても、地球人なんか比べ物にもならないような高等な宇宙人がやってきて太陽を破壊してしまう、かもしれない。ない、とは思う。でも、だからと言ってそれが100%ないとかあり得ないとは誰にも断言できない。未来がどうなるか分からないということはそういうことだ。こんな風に考えると当たり前のことは当たり前ではない。だからこそ、感謝することが大切ではないかと思う。「当たり前だろ」とふんぞり返っているのではなくて感謝する。太陽の例も挙げたけれど、ヨガには太陽礼拝というものがある。太陽に感謝する一連のヨガのポーズ(というか動き)があるのだ。太陽をあがめて太陽に感謝して礼拝する。インド人はこんなにくそ暑くてやっていられるかよ、ではなくて太陽に感謝してきた。だからこその太陽礼拝なのだ。当たり前のことに感謝する時、そこには何とも言えない浄化された清いエネルギーが立ちこめる。
だから、誕生日、当たり前じゃない。生きていること、当たり前じゃないのだ。太陽が昇ってくれることさえ当たり前のことではないのだから、すべからく当たり前と日頃思ってしまっていることは当たり前ではない。
誕生日の今日もあと残り8時間。感謝しつつ穏やかに過ごせたらなと思う。誕生日とはどんちゃん騒ぎをする日ではない。そうではなくて、感謝をする日。それにしてもよもぎ団子旨かった。こうしたすべてのことは神様からのギフトだ、と断言できないわたしに歯がゆさを感じながらも、まぁ、いいんじゃない? てなわけで星の40回目の誕生日なのでした。長文読んでくれてありがとう。バイバイ。
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1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。