忍法「セミがコロリの術」でうらやましい気持ちが消える

いろいろエッセイ
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 言うまでもなくこの社会、特に最近のSNSではとにかく人と比べさせようとする力が働いている。何をやるにしても、それにいいねの数が絡んでくる。いいねが10のわたしと300のあの人。それはまるでわたしの意見だったり考えが、劣っていて価値がないかのように言われているようで、何だかやりきれない気持ちになってくる。それだったら最初からSNSなんてやらなければいい。その土俵に立たなければ、見なければ気にならないよ。他人と比較するのは不幸の始まりだよ。比べないに限る。な~んて言われても、ついつい比べてしまう。というか、比べるようにこのSNSはできている。ネット社会はできている。なぜなら、今の自分に満足させてしまっては儲からないから。今の自分、すごく好きです、とか、悪くないよわたし、なんて思わせちゃったら商品が売れない。だから、自分よりも高い位置にいる人とどこまでも比較させて不満な状態にさせて、そこへ「これを買えばいいですよ」と絶妙なタイミングで商品を売り込む、というわけだ。ものすごい超絶美少女や、ずば抜けたイケメンなんかの写真がネットでは溢れている。それもこれも自分は足りないと思わせて、商品を売るため。
 まぁ、こういことを書きながらもわたしはあんまりネットをやらないようにしていて、それらからは距離を置いている。でも、ふとうらやましくなってしまう時というのがある。それはお金持ち。
 やっぱり、やっぱりねぇ、ミニマリズムと出会って解毒されたことはされたんですけどねぇ、それでもビル・ゲイツとか世界の名だたる大富豪の資産額とか見てしまうと、わたしって何だかなぁって思ってしまうんだ。だって、億じゃないよ。その上の兆だよ、兆。って金、持ちすぎだろ、って思うよ。ね、思わない? 何か自分がすごくしょぼく思えてくる。わたしは障害年金で毎月やりくりしているんだけど、それが本当にスズメの涙どころか、まるで砂粒一粒でしかないように思えてくる。ひもじい、ひもじいよ。何でこんなにカツカツ、カツカツやっているんだって思えてくるよぉ。
 なんて不平不満の泣き言を言い始めたわたしだったのだけれど、その瞬間、頭に浮かんだのだ。何が? それがね、セミ。夏にミンミン鳴くセミ、が命尽きて地面に転がっている姿。セミが今というこの時を懸命に鳴いている姿ではなくて(ちなみにセミはオスしか鳴かなくてそれもメスと交尾してえぇという煩悩にまみれた鳴き声なのだ。知ってた?)、死んで転がっているその姿。あれね、コロリって感じじゃない? セミがコロリ、と死んでる~みたいな。潔くそして呆気なく死んでいるセミさん。
 何かね、その姿を思い出したら、ぜ~んぶこのモヤモヤした気持ちがどこかへ飛んで行ってしまったよ。お金持ちを妬む気持ち。自分にその一部でもあったらという思い。ぜ~んぶ、雲散霧消いたしました。わたしってすごく単純な人間なのかなぁ。アホなのかなぁ? でもね、わたしにはこの考えがすごく効いた。凄まじい威力で効いた。セミがコロリと夏も終わりに近付いてきて死んでいる姿を思い出しただけで、全部解消されてしまったわけなんだ。
 ここに貧しいセミとお金持ちのセミの2匹のセミがおりました。貧しいセミは生きていくのに精一杯でその日暮らしのような毎日を送っておりました。一方のお金持ちのセミは毎日贅沢に遊び暮らしていたそうな。そして、2匹ともコロリと夏も終わりに近付いていてきた頃、死んだそうな。
 このお話風な感じのやつ、傑作だと思わない? わたしは去年、立て続けに祖父母を亡くしたのだけれど、人が死ぬのって呆気ないなって思ったんだ。二人ともセミのように呆気なくコロリ、なんていう風には死ねなかった(特に祖父は病院でたくさんの管をつけながら亡くなっていったから)。でも、何だかそのセミの亡骸を見ていると、呆気なくセミも人も、そしてあらゆる生き物もコロリなんだなって思うんだ。みんな死ぬ。いずれは死ぬ。たとえどんなにお金を持っていようとも、それも何億、何兆円とお金を持っていようとも、死ぬことから免れて不老不死で永遠に生き続けるなんてことはできない。みんな、いずれは死ぬ。コロリと、どんな人も生き物である以上、いつかは命が尽きるんだ。だから、それでいいと思うんだ。なんて言ってしまうと、この世の不条理とか凄惨極まる死とかあってはならないことを肯定するつもりなのか、と言われてしまうかもしれない。でも、それらさえも死というものによって等しくされる。どんな苦しみもどんな不条理もそして反対にどんな幸せもどんなに恵まれている状態であっても、すべて死によって平らにゼロになる。もちろん、そんなことはないと宗教的な観念を持ち出して反論できないわけではない。しかし、最近わたしが思うのは全部死によってゼロになる。平らになるのだから、それでいいんじゃないかということ。そして、今から100年後には今生きている人たちはもうこの地上にはいない。みんな死んでいてお墓の中で骨になっている。みんな死ぬんだ。だから、良くないとは思うけれど(理不尽な出来事とか)、それでいいじゃないかと思いたい。どんなに深い谷底も埋められて平らな平地になり、どんなに高い山も削り取られて均されて平らになる。それが死なのだと思う。そして、世界もいつかは終わる。太陽だって有限な存在で、今のところは毎日昇って沈んでくれているけれど、寿命が来ればその役目を終えてその輝きは消える。そうなったら地球はもはや生き物が住める星ではなくなる。
 と言いつつも、そうなる前にキリスト教が言う通りに世の終わりがやってきて、イエスさまが雲に乗ってこられて最後の審判を裁かれるのかもしれない。そして、その時まで墓に眠っていたすべての人(人類が誕生してからその時に至るまでのすべての人)が復活して天国へ行く人たちと地獄へ行く人たちへと選り分けられる、のかもしれない。最後の審判が行われれば、すべてがそこで帳消しにされる。悪人は裁かれ、飢えて死んでいった人は報われて、善行をした人も高く上げられ、金持ちもどうなるかは分からないけれど公平に裁かれる。
 話のスケールが急に壮大になってしまったけれど、キリスト教の示す通りになるにしろ、そうならないにしろ、それがどうなるかということをわたしが決めるわけではないし、誰か他の人間に決定権があるわけでもない。それはなるようになり、そうなったらなったで、それに従うしかない厳粛なものなのだ。でも、まぁ、わたしの場合は、セミがコロリと死ぬように金持ちたちだって呆気なく死ぬ。コロリと死ぬのだから別にそれでいいじゃないか。そんな気持ちでいる。どんなにこの世でおいしい思いをして好きなようにできたとしても、いつかは100%の確率で死ぬのだ。だったらいいじゃないの。おいしい思いをしやがってという気持ちが若干は正直なところを言えばあるにはあるのだけれど、それさえも無効にして消し去ってしまうような、そんな有無を言わさぬ説得力が死というものにはある。そして、今はブイブイ言わせている金持ちたちだって1000年後、2000年後には忘れ去られている。いや、それくらい経っても歴史上に名を残しているという場合もあるから。なんて言おうものなら、100億年後のことを考えてみればいい。もうその頃には人類も滅亡していて、人類がいたということさえも忘却の彼方へと消え去っていると思う。だから、どんなにこの世で権勢を誇っていても忘れ去られることから逃れるのは無理な話なのだ。
 だから、セミがコロリ。金持ちもそうでない人もいつかはコロリ、でいいじゃないか。
 セミがコロリと死ぬように潔く呆気なく死ねたらと思う。その時、どんなマイナスもどんなプラスもゼロとなる。それでいいと思うけどな。



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