白熱する菜食問答!!

菜食
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 自分のことをヴィーガンだと自称しているけれど、まだまだ駆け出しでそうありたいと思ってからまだ1ヶ月なのだ。でも、この1ヶ月、菜食生活をしてみていろいろと感じたことはある。精神面での変化だったり、体調の変化だったり、その他もろもろの変化だったり。
 先日、ヨガ教室の帰りにバスに乗ったらサラリーマン風の男性二人組がわたしの後ろの座席に座ったんだ。で、彼らの話し声が聞こえてきたからやることもないし、暇つぶしにと若いお兄ちゃんたちがどんな話をしているもんかと興味を覚えたから聞いていたんだ。そうすると、利率がどうの、利益率がどうの、顧客がどうの、とどうやら仕事というか、それもお金が絡んでくる仕事の話らしい。わたしはその話を聞いていて詳しいところまでは理解できなかったけれど、その話がどういうお話かということくらいは分かった。要するに何だかギラギラしている。それは言うまでもなく直感的にも感じられた。で、その時、この人たち、この二人組の体型を見る限りきっと焼き肉とかラーメンとか好きそうだし、ビールなんかのお酒も結構飲んでいそうな感じがした。一方、わたくし星は、と申しますと、お酒は一滴も飲みませんし、焼き肉もラーメンも通常のものは動物性のものなので食べられないから食べていない。食べているものは植物性のものオンリーで、それはそれは真面目にヴィーガンをしている。
 彼らとわたしの違い。このギラギラ感があるかないか、というのはやはり動物性の食品を摂っているかどうかというのが大きな要因であるかのように感じられた。肉食と菜食の違いと言ったらいいだろうか。その食べるものから受けている影響が決定的に違う。
 何度もこのブログにも書いている通り、わたしは生まれ変わったような気がしている。肉食をやめて菜食にして自分が生まれ変わったように思えてならない。それは自分自身の意識の濁りというか、ノイズのようなものが取れて頭がスーっとしている感じで、さらに瞑想でもすれば意識はさらに透き通ってくる。でも、こういうことは自分だけが分かっていればいいことだと言えばそうなのかもしれない。あえて人に菜食をすすめたりしなくても自分だけで「あぁ、頭の中が透明になって透き通ってきたなぁ。クリアーになってきたなぁ」と思っていればいいだけのことなのかもしれない。
 でも、菜食というのはヨガ以上に倫理的な側面を強く持っている主義主張であって、それはそれで徹底して一本線が通っている。ベジタリアンとかヴィーガン(完全菜食主義者)と聞けば「あぁ、偽善者な人たちのことね」と冷笑気味に思う人もいるのかもしれない。
 ヴィーガン、かくもなぜこの人たちは宗教的な戒律以上に飲食物について自ら制限を加えるのか。それはいろいろ理由はあるのだけれど、簡単に言ってしまえば、動物も苦しめてはならないと考えるからだ。人間と同じように情感を持った生き物であって、彼らだって狭いところに閉じこめられれば嫌で苦痛を感じるし、搾取されればこれまた苦しい。そして、殺されるとなればその際には壮絶な苦悶を味わい絶叫する。
 もしもわたしたちの体が植物を食べ物として受け付けなくて、肉食しなければ生きながらえることができないのであれば肉食ならびにそのための屠殺も致し方ないだろう。しかし、わたしたちは別に肉を食べなくても植物を食べさえすれば生きていけるし、何が何でも動物を食べなければダメだということではないのだ。だとしたらなぜ動物を食べるのだろう? それは自らの快楽のためだ。動物性食品特有のおいしさというか、あの独特のうまさを味わいたいからだ。いわば贅沢とかグルメのような嗜好品のようなものとしてわたしたちはお肉を食べたいと思う。でも、そのお肉、本当に食べなければならないのかな? どうしてもやむをえずの選択だと言えるのかな? ここまで突っ込まれると答えに窮することだろう。どうしても動物を殺してその肉を食べなければ生きていけないのなら、泣く泣く殺していただくしかない。けれど、そうでもない。だったら植物にしておかない?、というのがヴィーガンの姿勢なのだ。
 よく受ける、というか一般的に菜食主義者に突きつけられる問いで一番有名なのが「植物だって生き物だけれどそこのところをどう説明するの?」というものだろう。これは核心をついているかのように思えるし、菜食ではない一般の人の多くはおそらくこれに対して菜食主義者は答えられないんじゃないのって思っている。わたしも以前はそう思っていた。
 たしかに動物と同じように植物にもまだ解明されてはいないものの、意識があり、情感があるのかもしれない。葉っぱをちぎれば痛みを感じて苦しみ、根っこから引き抜かれれば断末魔の叫びをあげる、のかもしれない。でも、それは可能性の話であって断定できることではないし、わたしたちにはまだそこのところは未解明なのだ。が、仮に植物も意識があり苦しむとしよう。そうするとどうなるか? そうするとわたしたちはどうしなければならなくなるのか? 植物、殺せなくなりますよね。正直もう駄目です。動物はもちろん植物でさえも殺せなくなる。となるとどうなるか。わたしたちは餓死しなければならなくなるのです。何も食べられなくなって飢えて死ななければならなくなる。ここまで菜食主義者もツッコまれるともうお手上げ。そうですね、食べる物がなくなってしまいますからみんな死ぬしかありませんね、となる。となれば人類滅亡であります。人類は滅び、その栄光は消滅するのです。
「植物を殺していることをどう説明するのか?」と菜食主義者に迫る人はわたしからするとわたしなどの菜食主義者に「そこまで言うなら死んだ方がいいんじゃないですか」と言っているかのように感じてしまう。でも、非菜食主義者自身は肉を食べ、植物も食べているのに、菜食主義者が植物を食べることさえも取り上げようとするのだ。この植物を殺していることを説明せよ、と菜食主義者に迫ることができる人、その資格がある人は動物はおろか植物さえも食べずに石や鉱物や空気などの無生物のものだけを摂取して生きながらえている人ではないかとわたしは思う。何も食べて生きながらえるために生き物を殺していない人。そうした人だけにこの問いを発する資格がある。
 わたしが思うに少なく殺している人が多くを殺している人に「それは殺しすぎじゃないですか?」と問いかけたり、何も殺していない人が少なく殺している人を批判したりする、というのは筋が通っていると思う。その批判している人自体がその相手よりも少なく殺しているからだ。けれど、多く殺している人が少なく殺している人に対して「あなたがたはわたしたちのことを批判するけれど、あなたたちだって殺していることに変わりはない」などと言うのは感心できる話ではない。それは自分が多くを殺していることを正当化するために「あなたもわたしも同じでしょ」と自分のことを棚に上げて少なく殺している人たちをこき下ろそうとしているにすぎない。もしも少なく殺している人を批判したいと思うのなら、この人たちよりもより少なく殺す人にならなければならない。話はそれから、そこからなのだ。
 多く殺すとか、少なく殺すといった表現が何を意味しているのか分かりにくかったと思うので補足すると、非菜食主義者は動物を殺して、さらにはその動物たちが餌として食べて生前殺した植物たちをも殺している。その動物たちはお肉になるまでに大量の飼料を食べている。そのためには大量の植物たちが殺されなければならないのだ。それだったら、何も動物たちをお肉にしないで、その植物を直接人間が食事として食べてしまった方が被害は少なくて済むのではないか。だから、菜食主義ではない人たちは動物たちを殺している上に、さらにはその餌となった植物たちをも殺している、とダブルで殺しているのだ。これが多くを殺すという意味。分かっていただけただろうか?
 そういうわけで、少なくとも生きていくために植物を食べていかなければならないわたしたちなのだからこの点は大目に見てもらうこととしよう(これ以外に最も生き物への被害が少なくエコでもある方法ってありますか?)。もし、これを大目に見られないのだとしたら人間は死に、人類は絶滅しなければならない。80億もの人間が一斉にみんな死ななければならなくなる。そこまで求めるなら、求めるべきだと思うのであれば大目に見なくてもいいと思いますよ。ただ、それは自分がその思想だったり、信念だったり、理念だったりのために言葉通り餓死するつもりの人にだけ言うことが許される言葉であることは言うまでもないですけどね。
 わたしは本当だったら、もっと言うなら、何も食べないで生きていけるのならそれが一番だと思う。生物も、無生物も何も自分の体に取り込まなくても生きていけるのであればそれが究極的な意味での理想の形なのだろう。これ以上ない完璧な姿であり完全無比なあり方なのだろう。しかし、わたしたちはそのようにはできていない。必ず、呼吸をして酸素を取り込み二酸化炭素を出して、それから生き物を自分の体の中に取り入れて自分の細胞を常に入れ替え続けていかなければならない。生きていくためには殺さなければならない。これが本当にわたしにとって歯がゆくてならない。何者も殺さない。そんなあり方でいたい。でも、それは現実には無理。それを実践すると自分が飢えて死ななければならなくなる。
 これから科学が発達して空気だけで生きていける時代がやってくるのか、それは定かではない。しかし、今のところ、わたしたちは食べなければ命をつないでいけないのだ。だったら、他の生き物に優しくあった方がいい。植物を食べなければならないことにスッキリしない思いがすることは事実だけれど、それでもできる限り殺生は控えてエコに暮らしたい。それがヴィーガンという完全菜食主義の生き方なのだ。
 と言いつつもまだ1ヶ月。ひよっこであることは十分承知の上で、この記事ではわたしが菜食について思っていることをいろいろ書いてみた。頭に来たかもしれない。何もそこまで言わなくてもいいじゃないかと思ったかもしれない。でも、これがわたしの今の本音なのだ。もしこの記事を読んでもっと菜食のことについて知りたいと思ったり、まだまだ反論あるんですけど、などと思われた方にはいい本があるので紹介しておきたい。シェリー・F・コーブ『菜食への疑問に答える13章 生き方が変わる、生き方を変える』というこの本では分かりやすく、しかし、かつカッチリと論理的に説得力のある説明がなされている。菜食についての疑問に著者が答えてくれるような構成になっていて、わたしはこの本を読んで目から鱗が落ちたと同時に激しいまでのカルチャーショックを受けた。でも、読んでみて本当に良かった。この本を読んでわたしはヴィーガンになろうと思ったのだから。それくらい衝撃があってわたしを揺さぶった本だった。ぜひ、読んでみてください。これはオススメです。非菜食者(一般的な人)を頭ごなしに否定するのではなくて優しく語りかけているようなところにも好感が持てる素晴らしい本です。あまり人には本をすすめないのだけれど、これだけはおすすめしたかったのでおすすめさせてもらいました。一読あれ。

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