みんな泥まみれ

キリスト教エッセイ
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 わたしのこのブログのアクセスログによると、あるサイト経由のアクセスがとても多い。で、考えたんだ。これって何のサイトなんだろう。詳細までは分からない。けれど、やっと紆余曲折を経て分かったのだ。Yだ。Yのブログからだ。
 はじめて見るYのブログ。まるで怖いもの見たさのようなそんな感じで恐る恐る覗いてみたのだった。で、感想。探さなければ良かった。見つけなければ良かった。そして、読まなければ良かった。この三拍子がわたしの感想。でも、読んでしまった。
 わたしのことが徹底的に批判されていた。まぁ、いい。Yのことだからそれは批判くらいすることだろう。けれど、その批判はこれでもかというくらい身も蓋もないくらいに容赦ないものだった。読了後、わたしは気が滅入ってしまった。幸い、死にたくはならなかったけれど、それでもダメージは受けた。
 彼のわたしへの批判は、おもに聖書の教えに従って生きることができていないことへの批判。それから、わたしの生きることは仕事ではないか、生存は労働ではないかという思想への批判。さらには、わたしが料理をしたり、ゴミ出しをしたり、勉強していることは仕事でも何でもなく普通のことでしかなくて仕事などではない、といった批判。
 その批判を受け止めてわたしが思ったことはいくつかある。けれど、わたしはYと論争をしたり、議論をしたいわけではない。そんなことは不毛なばかりでほとんど意味がないし、おそらくやり取りは平行線のままだろう。でも、あそこまで言われて、言い返すわけではないけれど、わたしの意見を曲がりなりにもこの場で表明したい(って結局言い返しているわたしがここにはいるのだけれど)。
 わたしが十戒の仕事をしなさいという掟を守れていないということについては、百歩譲って仮にそのことを認めたとしよう。でも、そうなるとYは途端に窮地に立たされることになる。聖書の教えを守る、それも字句通りに守り従うということがどれだけ難行であることか、とYに同情したくなってしまうくらいなのだ。いや、難行どころか多大な問題をはらむのだ。
 まず安息日の掟。たしか破ったら死刑だったよね。安息日って厳しいんだ。だったら、日曜日に仕事をしている人たちを見過ごせないよね。少なくとも彼らは安息日に仕事をしてしまっている。それを一人残らず処罰しなければならないことになるけれど、そんなの現実的ではないよね。
 この調子で律法をすべて守るとしたら厳格なユダヤ教徒のような生活をしなければならない。もちろん、豚肉もダメだし、ありとあらゆる決まり事をすべからく守らなければならない。それやってる? できてる? Yはわたしが仕事をしていないと槍玉に上げるけれど、そういう自分は完璧に聖書の言葉を実行できてるの? できてるわけないよね。そんな人間、地球上に一人もいないから。
 これらは旧約の話だけれど、新約のイエスさまの掟の隣人愛。これ、完璧にできてるの? できてるわけないよね。神様を徹底的に愛せてるの? これも地球上に未だかつてできた人はいないよね。
 だから何というか、少し泥まみれじゃない人がより泥まみれな人を裁いて「お前汚いな」って言っているようにわたしには思えるんだ。自分が聖書の言葉に従えていないことは棚に上げて、少しばかり自分よりも従えている程度が低い人を批判する。これってダメな人がよりダメな人を批判しているだけだと思うんだ。聖書にもある通り、正しい人は一人もいないんだ。みんな罪にまみれていてまさに泥まみれ。それなのに俺は正しい生き方をしているんだぞって誰かに誇示する。神様の前で誇る。それってどうかと思うんだけれど、Yはそのことにおそらく気がついていない。自分は正しい。少なくとも星よりは正しい。何かつまらない話だなぁって思う。
 生きることは仕事です。これはわたしの変わらない考え。料理をつくることも、ごみ出しをすることも、勉強することも立派な仕事です。この考えはどんなに批判されても変わらないだろうと思う。Yにとっては生きることは仕事なんかじゃなくて当たり前の普通のことかもしれないけれど、少なくともわたしにとっては仕事です。お金になることだけが仕事だとYが思っていたいのであれば、それでかまわない。でも、お金にならない当たり前の普通のこと、生きていることだって立派な仕事なんです。それを仕事じゃないとか言わないでもらいたい。それはこの生きるという仕事をしている人に失礼です(と言えば、そういうお前こそ汗水たらして一般的な意味での仕事をしている人たちに失礼だとYは言い返してくるだろうけれど)。
 今は普通に生活できているわたしも、二〇代のころは普通に憧れていた。普通になりたかった。いや、普通になれない自分を何てダメなんだろうと否定さえしていた。
 二〇代のころ、こんなことがあった。わたしはさば缶がどうしても食べたかった。だから、一人で遠出をしてスーパーへ缶詰を買いに出かけた。レジで支払うところまではできた。けれど、途中で猛烈に調子が悪くなってきてしまい、買った缶詰を買い物袋に入れることができない。一人で顔を青くして困っていたら、見かねたどこかのおばさんが缶を袋に入れてくれた。そして、何とか自力で家まで死ぬような思いで帰った。
 今も時々、その時のような感覚になって困ってしまうのではないかと不安になる時が実はある。けれど、Yはもちろんこうした話は知らない。だから、一見すると調子が良さそうなだけに見えるわたしをズルをして働かないでいるなどといった感じで平気で批判する。人はね、言わないだけでその人しか知らない苦労を抱えているものなの。
 それと、またいつ死にたくなってしまうだろうか、というまるで爆弾のようなもろさもわたしは抱えている。それをYはいい年した大人が意気地がないと一蹴する。
 最初の話に戻るけど、そういうあなたの態度が果たして隣人愛を完全に実践できているって言えるの? 少なくともわたしはあなたからは温かいポカポカした心は正直なところ、感じられないなぁ。イエスさまのすごいところっていうのはね、急所を外さないところだよね。いろいろ言っているようだけど、じゃあ、あなたは自分を愛するように隣り人を愛せているのですか、と来るわけだ。そう言われちゃったらぐうの音も出ない。こんなことを書いているわたしだって隣人愛の実践なんてほとんどこれっぽっちもできてなんかいやしない。
 それはみんな同じ。だから、誰が正しいとか間違っているとかそんなまるでどんぐりの背比べをするんじゃなくて、同じように泥まみれだってことを認めたほうがいいと思う。
 わたしにはあなたが律法学者やファリサイ派に見えてしまうんだ。イエスさまには彼らも泥まみれだってことが痛いほど分かっていたと思う。そして、自分たちは正しいんだって主張することをおそらく残念に思われていた。だから、あれだけイエスさまは手厳しかったんだよ、きっと。

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