使命

キリスト教エッセイ
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 わたしは生きている。そして、今こうして文章を書いている。と、使命ってあるのかなぁとふと考える。わたしの使命。あなたの使命。誰かの使命。みんなの使命。
 人は誰しも必ずいつかは死ぬ。死に方にもいろいろあるけれど、人が死ぬ時というのは神様が「天国に行きなさい」と命じられた時ではないかと思うのだ。今の教会の前に行っていた教会の牧師はわたしに「あなたがいつ死ぬのかということも神様はご存知なんです」と言った。神様は全能、つまり全知でもある。だったら、わたしがいつ死ぬかっていうこともしっかりと神様はご存知。それほどに神様という存在は大きな大きな御手の中でわたしたちをまるでゆりかごのように養ってくださっているのだ。だから、自分がいつ死ぬかとあくせくしても仕方がない。神様のもとへとわたしの魂が赴く時には赴きますから、という理解なのだ。
 人間が生涯を終える時がまさに大いなるみこころによるものだとしたら、どんな人にも使命というか召命のようなものがあるんじゃないか。神様ははっきりと「これがあなたのやるべきことです」みたいには言わないけれど、きっとあるんじゃないかって気がする。
 何も壮大なスケールでやるべきことが、使命があるというばかりではないだろう。家庭を慎ましく営んでいくことが神様のみこころだとしてもおかしくない。ビッグなことだけではないと思うのだ。
 神様、わたしのやるべきことは何ですか?
 わたしの使命は何なのですか? 
 わたしは何をするために生まれてきたのですか?
 わたしは問う。神様はいくら何でも「そんなのないよ」とか「特にないよ」などとは言われないだろう。わたしをこの世に造られたことにはきっと何らかの意味があり、使命や目的もあるんじゃないか。
 でも、この生き方はある意味苦しくもなりうる。なぜなら、自分には何か人生の目的があって、そのためにわたしは生まれてきたんだから、何が何でもそれを神様から教えてもらってそれをやらないことには自分の人生を生きることができない、と思ってしまうからだ。
 こうした脅迫的な思考については、そこまで思い詰めなくてもいいんじゃないかって思う。たしかに人生の意味とか目的が比較的若い時期に分かる人もいる。でも、それが分からないままだという人もいる。もしかしたらだけど、死ぬ間際になってそれが分かる人もいるだろうし、生きている間にはそれが分からなかったという人も少なからずいることだろう。その使命をいわばその人に伝えるか伝えないかというのも神様次第である以上、それは委ねていくしかないと思うのだ。
 だからこそ、神様に祈りの中で「わたしの進むべき道を示してください」とか「わたしの使命ならびに人生の目的を教えてください」と求めていくのだ。そして、使命が与えられたらそれに従い、与えられないのであればその場合にも従っていく。わたしに神様から使命が与えられるかどうか。それはまさに神様次第。だから委ねていく。与えられても与えられなくても委ねていくんだ。
 わたしに使命がもしあるのでしたら教えてくださいと祈りつつ、神様と共に歩んでいきたい。

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