幸せ見つけた

キリスト教エッセイ
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「これが幸せというものなのかも」と平凡な日々の中に幸福を発見する時がある。それは朝散歩をしている時のことで、鳥がさえずり、やわらかな気持ちのいい風が吹いていて、緑はまぶしくていきいきとしていて、いわばありふれた光景。けれど、この景色の中にわたしは幸せを見出すのである。それも何か性欲の絶頂みたいな激しさがあるわけではない。ただ、のんびりとしていて、ほっとできて、心がのびのびとしている。
 おそらくわたしは幸福を見つけたのだろう。幸福とは激しさを伴わないもののようだ。幸福はスローな空気と共にあって、まったりのんびりしている。星大地38歳、この年齢にしてようやく見つけた幸福。
 わたしの目の前には二つの道が分かれている。刺激に満ちた激しい道か、それとも心の平安があるゆるやかな道か。迷うまでもない。わたしはまったりした道を選ぶ。そうして、まったりまったり人生を歩んでいくのだ。うん、それで決まり。
 当たり前の中に幸せがある、とわたしは思う。激しいものは刺激的で誘惑してくるけれど、そんなものは長くは続かない。太く短くではなくて、細く長く。
 わたしにとっていまだに苦戦していることがある。ポルノである。これを何度やめようと思ってきたことか自分でも分からない。けれど、何だかんだ言いながらもやめられずに来た。来てしまった。わたしにとって激しさのあるものとはまさにポルノのことで、見れば一時的な快感が得られる。その快感がやめられないんだ。でも、今やめようとしている。必死でポルノを見たい誘惑と戦っているんだ。闇との戦い。そう言ってもいい。自分の中に巣食っている闇との戦い。ポルノ、やめたいよ。
 そんなわけでわたしはkindleからアダルト本を全部削除した。パソコンもアダルトサイトが見られないように設定した。これで準備は万端。あとは専念していくのみだ。
 わたしの幸せのイメージは、緑の中を散歩している。豊かな人間関係に恵まれていて、その中でわたしが人々と笑顔で話をしている。それから文筆業についていて、作家として自分の本が店頭に並んでいる。料理も作っている。まだ見ぬ未来のパートナーと母とわたしの3人で美味しい手作り料理を「おいしいね」と喜び合いながら食べている。とにかくそれらはいい空気に包まれていて、それはそれは安寧なんだ。安らぎなんだ。そのイメージの中には一人でポルノを見ている画は一切含まれていない。だから、言うまでもなくポルノはわたしが望んでいるライフスタイルに必要なものではないんだ。むしろ、不要でなくしていった方がいいもの。
 わたしが願うもの。願う姿。なりたい自分に求めている生活。そうしたイメージを常に思い描きながら、これからそれに近付いていくためには何をしたらいいのか、自分自身で考えつつやっていきたい。
 そうしてやっていけば、わたしは魅力的な人間へと変えられていくことだろう。そして、そんなわたしのもとには類は友を呼ぶの言葉の通り、いい人たちが集まってきて、またさらにいい空気になっていく。どこまでも、どこまでも好循環は続いていき、あらゆる面において豊かになっていく。ポルノでくすぶっている場合じゃないんだ。今すぐにでもやめて、次のステージへと駆け上がっていくんだ。
 時々、祖母が骨になった姿を思い出す。火葬されてお骨になった姿だ。わたしもいつかは骨になる。だから、やりたいことをやっていこうと思う。それも本当にやりたいことを。そして、やるべきことをも。
 神様はわたしに何を望んでおられるのだろうか。祈りながら神様の声を聴いていけたらと思う。もしかしたら、わたしのやりたいことと神様が命じられることが真っ向から対立したり、食い違うこともあるかもしれない。その時はその時で、自分の中でも折り合いをつけながらやっていけたらと思う。
 神様もきっとわたしにポルノをやめることを望んでおられると思う。少なくともそうなんじゃないかな。
 幸せは朝散歩の時に感じたあの感覚を見失わなければ逃げていかないよね。あの感じを大切にしながら、神様の声を聴いていきたい。
 神様、わたしを幸せで包み込んでください。

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