今日、精神科の外来に行ってきたんだけれど、診察も終わって、病院の近くの薬局で薬を待っていたときのこと。
体格のいい、そうだな。40代後半くらいかな。それくらいの男性が母親らしき人と一緒に来ていて、薬をもらうためにカウンターへ行ったときのことだった。何も特別なことがあったわけではない。しかし、わたしは思わず眉をひそめてしまった。何があったか。息子が困らないようにと母親らしき人が声をかけているのに、その息子(らしき人)が母親に「あっちへ行け」とか追い払うかのような仕草をしてしっしっみたいな態度を取ったのだ。
見るからにその男はわたしが想像するに、自分の生活は母親とか家族任せで、おそらく家事はほとんどやってもらっているような感じが漂っている。今日、この通院だって母親の車に乗せてきてもらったか、母親に手取り足取りやってもらってタクシーで来ているか、どちらかだろう。
わたしはその様子を見て、カチンと来た。以前のわたしだったらその男に「母親に向かってその態度は何だ」と怒鳴り散らしていただろうけれど、それから大人になった星はそういうことはしない。ただ、その少しもの悲しそうな表情をしている母親を不憫に思うだけだった。わたしもどちらかと言えば甘やかされて育ってきた方かもしれないけれど、その男からはそうした空気がぷんぷんしているのだ。おそらくその男が何かをほしいと言えば、その通りに母親は与えてきただろうし、今だって与えているんじゃないか。もちろん、その親子には親子の歴史があって、第三者であるわたしがズカズカと土足で上がり込んでいいものではないし、それはやってはいけないことだ。しかし、あまりにも目に余る。この態度はひどいんじゃないか。
自分の親が毒親で過干渉だったり、傷付けるようなことを平気で言うのであれば、「あっちへ行け」というの仕方がないとしてもまだ分かる。しかし、その男と母親はそういうようではなくて、ただ息子があまりにも自己中で思いやりがないために、母親を冷たくあしらっているようなのだ。
母親。母親はみんなお腹を痛めて子どもを産む。まず、妊娠を知ったときの喜び。そして、お腹の子をそれはそれは大切に愛おしみながら数ヶ月も育む。それから、女性にとっての最大イベントである出産。すさまじい陣痛に耐えながら我が子を命をかけて産む。生まれたら生まれたで子育て。3時間おきに寝不足になりながらも、我が子のためにと授乳をする。授乳が終わったら離乳食。慣れない料理に戸惑いながらも離乳食をつくって食べさせる。そんなこんなで、時が流れていき、小、中、高、大、成人式、就職と母親はいつも子どもと共にいて成長を見守り続けている。これってすごいことなんじゃないかと思う。
それを「あっちへ行け」はないんじゃないか。今、この文章を書きながら、わたしが感じた怒りややるせなさが正当なものであったことに気付かされている。
わたしは今、母親との二人暮らしだ。毎日楽しくやれている。人間関係も良好で、彼女もわたしとの日々を楽しんでくれているようだ。
もう38にもなるというのに、母親と同居? マザコンもいいところなんじゃない? いやいや、マザコンではない。と言いつつも仮にマザコンだとしたら、この呼び方はやめてほしい。マザコンではなくて、「母親思い」だと言ってほしい。もちろん、母親と今でも一緒にお風呂に入るとか、新婚旅行には母親も一緒に連れて行くつもりだ、とか言うのであれば、やはりそれは度を越したマザコンだろう。でも、まぁ、わたしはしっかりと節度を持って母親とは付き合えているので、ご心配なく。しかしながら、ここまで母親との生活が楽しいとあえて彼女をつくろうとか、パートナーがほしいとか思わないので、強いて言うなら問題はそれくらいかな、と思う。でも、母親が施設に入所したり、亡くなったりしたらきっと寂しくなるだろうから真剣にパートナーがほしくなるかもしれないだろうな。それはともかくとして、まぁ、そんなこんなで楽しくやれているのだ。
わたしが母親を大切にしてやまないのは、自分が苦しかったときに本当に支えてくれたからだ。感謝、感謝なのだ。わたしが死にたいと昔、打ち明けたときにも「あなたはわたしの宝物だから死なないで」としっかりと懇願してくれた母なのだ。そのどん底だったときに支えてもらった経験があるからこそ、多少大変なことがあっても乗り越えることができるのだ。今までだって乗り越えてきたし、これからも大丈夫だと思っている。
そんな大切な母だからこそ、母にはぜひともキリスト教の洗礼を受けてもらいたいとわたしは思っている。受ける適切なタイミングがなかなか来なくてほぼ天国泥棒(死ぬ直前に洗礼を受けること)になっても構わない。わたしは母の魂が死後も安らかに平安につつまれることを願っているのだ。それも確実に、である。今はコロナ禍で聖餐式はできないけれど、いつか一緒に聖餐に与れたらと思う。一緒にぶどうジュースと白いウエハースを食べたいな。ま、近いうちにその日はやってくることでしょう。
母との毎日の平凡な二人暮らし。このつつましい一日、一日を味わいながら大切に大切に送っていけたらと思う星である。もしかしたら、いや、もしかしなくてもこうして母と楽しく暮らせている今が一番幸せなのかもしれない。5年後、10年後にはどうなっているかはもちろん分からない。わたしにパートナーができているかもしれない。でも、パートナーが得られたら母もその輪に加わってもらってどうなるかは分からないけれど、わたしと彼女と母の3人で楽しく暮らして行けたらなと思う。だから、彼女には母と同居してもらうことを求めるんだ。これってマザコン? いやいや、母親思いだと言ってください。それだけ母親はわたしにとってかけがえのない大切な人なんです。わたしが選んだパートナーだったらきっと素敵な人だろう。(って自分で言っちゃう。)どうしてもと言うのならと同居も受け入れてくれることだろう。まぁ、こうした話はそのときになったらそのときで違った展開を見せるかもしれない。でも、今はこんな風に思っているのだ。
おそらく母親思いの星。素晴らしい未来を、ではなくて、すでに現在がもうすでに未来なんだ。だから、今を大切に生きる。今を大切に大切に生きる。母と一緒に生活できるのもあと10年ちょっとくらいなのかもしれない。一日、一日に母への感謝の思いも込めながらやっていけたらと思う。お母さん、いつもありがとう。感謝してます。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/元ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。