わたしも時々思ってしまうことだが、他の人のことを「うらやましいな」とか「ずるいな」と思う時がある。
それは経済的に恵まれていて、裕福な暮らしをしている人。そういう人には家庭教師がついていて、塾にも行けて、と万全の態勢なのだ。
東大合格者の親の平均所得が高いというのは、つまりはそういうことではないのか。
たしかに、貧しい家庭であっても、難関大学に受かる努力家の人はいる。が、そもそもバックアップ態勢が違いすぎる。明らかにいろいろな意味で余裕がある人の方が勉学に集中できるのは当然のことだと思う。
かく言うわたしが、今、放送大学で学んでいるのは、学費が安いからだ。卒業までに70万円しかかからない。だから、この大学にしたのである。本当は普通の大学へ行きたい。けれど、生活費を含めた諸費用をわたしが払えるとは思えない。働きながら大学行けばいいんじゃない?、と思うかもしれないが、統合失調症のわたしにそのような芸当ができるはずもなく、やはり放送大学しか選択肢がないのだ。
わたしが最もうらやましく思うのが、金持ちのボンボンだ。奴らは何もしていないのに、ただ親が金持ちだということだけでいい暮らしをしている。過去には生活保護バッシングがあったが、叩くべきはこうしたボンボンではないか。などと敵対心むき出しの星であるが、もうそういうのはやめた。
つまらない。実につまらない。誰かを敵にして、その人々を攻撃したところで、結果として何にもならないことが分かってきたからだ。今のわたしのスタイルとしては、「お好きなようにどうぞ」である。「わたしはわたしの道を進みますから、あなたもせいぜい頑張ってください」てな感じなのだ。
この考え方は精神保健福祉士のWさんから教わった考え方で「お達者で~」というやつなのである。
世の中には、わたしよりも金持ちな人は腐るほどいる。頭のいい人も、スポーツができる人も、文章がうまい人も、ルックスがいい人も、掃いて捨てるほどいるのだ。そんなおびただしい自分よりも恵まれている人や優れている人を引き合いに出したところで、一体それが何になるのだろう。何のプラスになるのだろう、と思うようになったのだ。
わたしはわたしで、わたし独自の行き方をして進んでいけばいいだけのことで、人のことをとやかく言う必要もなければ、彼らと比較して落ち込む必要もそもそもない。
仮にここに何も働いてはいないけれど、親の莫大な財産を相続してウハウハな生活を送っているボンボン男がいたとしよう。この時、彼を見て何を考えるのが一番建設的だろうか。「許せない。自分で稼いだわけでもない金でいい暮らしをするなんて言語道断だ。憎らしい」と怒りを燃やすのがいいのだろうか。
わたしは今なら、ここでこう言う。「それは良かったですね。ま、大切に使って楽しい生活を送ってくださいよ」と。
朝、お風呂に入ってから散歩をすることが多いのだが、その時、お日様を見ながら自分がつまらないことにこだわっていたことに気付かされるのだ。まぁ、いいじゃないの。お日様の光はみんなに平等に与えられているんだから。それでいいじゃないの。細かいことは気にすることないよ、と寛大な気持ちになれるのである。まるで自分の中の闇の氷がお日様の光で溶け出していくような、そんな感じ。わたしはわたしで幸せなんだから、別に他の人がズルをしているとか、出し抜いているとか別にいいじゃん。単純なのだろうか、それともお日様パワーで楽天的になっているのだろうか。お日様のもと、朝散歩をしている時のわたしはとても優しい気持ちに包まれている。
人をうらやましいと思ったり、嫉妬したり、攻撃したくなる時ってやっぱり自分が本当の意味で幸せを感じていないんだろうと思う。本当に自分が幸せで満ち足りていたら、そういう感情出てこないんじゃないかな。わたしがそういう感情をいまだ完全に卒業できていないのは、おそらく人間が完璧に幸せになるのは不可能だからかもしれない。でも、最近、わたしは他の人のことが以前よりも気にならなくなってきた。だって、自分が幸せだから。気持ちが平安で満たされていることが多いから。そうなると、他者に対して何を思うようになるかって言うと、幸せになってほしいと願うようになるんだな。羨望、嫉妬、攻撃。そういったことを考えなくなってくる。本当、自分でも不思議なんだけど。でも、まだ完璧にではない。完璧になることは不可能だとは思うものの、その方向になっていくのは事実だと思う。と同時に、他の人のことをとやかく考えたり、指図したり、批判したり、命令したくなることも減るのである。ま、いいじゃん。みんなそれなりに一生懸命やってるんだからさ、てな具合に。
それに金持ちになれば問題がすべて解決するわけではなくて、金持ちには金持ちの悩みや問題があるのだ。さっき例としてあげたボンボン男にだってきっと悩みはあることだろう。お金を持つ者の悩みがきっとあるはずだ。だから、どんな境遇や立場になっても悩みというものはあるものだし、人生は悩みと共にあるのだろう。
わたしは最近、幸せになってきた。もっと幸せになりたいと思う。これはいけないことなのだろうか。軽薄で深みのない願いなのだろうか。でも、わたしは神様に「もっと幸せにしてください」と事あるごとに祈り求めていきたいと思っている。これは御利益を求めていて、いけないことなのだろうか。いいや、そんなことはなくて、ほしいものを何が何でもくださいと神様に願うのがキリスト教ではないのか。どん欲にもっとください。もっとください、と乞食のように神様の足下にすがりつくのではなかったか。「ください。ください。わたしに幸せをもっと与えてください。」そうしたら神様はきっとわたしに幸せをあふれるばかりに与えてくださることだろう。
神様、どうかわたしをもっと幸せにしてください。そして、他者の幸せを願える者にしてください。あなたのあふれるばかりの恵みをさんさんとわたしに降り注いでください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。