現在は2025年10月で、ヨガの道場へ通い始めるようになってから今月でちょうど2年ということになる。正直、2年でありながらも、もう5~6年は練習しているような、そんな感じがしてならないくらい、この2年は濃かった。師匠も、週1くらいでいつの間にか5年が経ってしまった人もいる中で、週5とか6で練習してきたわたしのことを高く買ってくれているような、そんな話を最近わたしにしてくれた。
でも、最近どうもヨガに対してあまりやる気が起きない。2年前に自分が書いたその当時の文章を読むと、かなり温度差があって、現在のわたしはどこか冷めている。あの熱い気持ち、情熱はどこへ行ってしまったのだろうと言いたくなるくらい、今のわたしは冷めてしまっている。
ヨガの目的は言うまでもなく、悟って解脱をすることだ。そのための方法としてヨガがある。ポーズを取る練習をして心身をまずは浄化してきれいにしていき、自分の中のくもりや汚れを取り除いていく。マインドが透き通ってくれば、おのずと解脱の方向へと近付いていって、真理を悟ることができるのではないか。そう考えているからこそ、日々、ヨガの練習をする。
げ、その悟りや解脱と呼ばれている状態、あるいは到達点が本当にあるのかどうかと言えば、こればっかりは師匠にも分からないらしい。って、そのあるかどうかさえ分からない境地に到達するために頑張って努力するわけだから心許ないと言えば心許ない。では、どこまでそのことについて言えるかというと、キリスト教などの宗教の信仰と同じく「わたしはそれを信じています」というところまでだ。それ以上のことは分からないし、そこから先は感じて信じるかどうかの世界で、事実としてそれがあるかどうかということは謎だ。もしかしたら、何千年という長い歴史の中で先生から弟子へと絶えることなく、連綿と受け継がれてきた伝統的なこの教えは、ニーチェが言っていたように「神聖な嘘」なのかもしれない。過去の先人たちはこのありもしないフィクションを信じて生きて死んでいっただけだったという可能性もある。多くのヨガの修行者たちは騙されて欺かれていただけだったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。
毎日、ヨガをやり、インド哲学に少しずつふれていくにつれて、この現実が前にも書いたけれど、幻のような感じがしてきた。スーっとして一人、この世界から浮いているような感じが特にヨガをやるとしてくる。そして、何か生きていることさえもどうでもいいような気持ちになってくる。自分が生きていることに意味がないと思うようになったし、同時に死ぬことにも意味がない。要するに、生きたければ生きていていいし、死にたければ死ねばいい。最近では海へ行った時に、何か大いなる存在からそう語りかけられているような感覚さえあった。
そんな精神的にふわふわした感じのヤバい状態になっているのを、わたし自身が生きることへと必死につなぎ止めようとしているのか、あるいは違う意味で絶望していて投げやりになっているのか、逆に性的な欲求や食欲などに慰めを感じるようになった。
この2年でわたしは成長したとは思う。心身ともにたくましくなり、強くなった。別人のようになったのは言うまでもない。始めたばかりの頃には、師匠も含む道場の人たちがものすごく筋肉質でたくましく見えていたのに、今ではそれを見ても特に驚くこともなく当たり前になった。街や電車などでみかける普通の人たちがすごく弱そうに見えるし、体育会系の高校生を見ても違和感がない(同類、仲間のような感じ)。夜(夜の11時とか12時頃)、東京の街を歩いた時にも、恐喝されたり絡まれたりすることもなかった。でも、さすがに5~6人のやんちゃそうなお兄さんのグループが歩いて来た時には近寄らないようにはしたけど。
体だけではなく、メンタルも強くなったのは事実で、昔だったら暴れていたか、それが自分へと向かって自殺していたような状況でも耐えてこらえることができるようになった。
また、本格的にヨガをやるようになってカッコ良くもなったと思う。ヨガの道場に来ているメンズの人たちはみんなカッコいい。心身ともに整った強い男ってやっぱりいいんだよ。同性から見てもほれぼれするくらい、素敵なんだ。実際、男らしさを増すテストステロンと呼ばれる男性ホルモンのレベルがヨガ男子は高いと思う。そりゃあ、毎日のように規則正しい早寝早起きの生活をして、食事や睡眠にも気を配って、ヨガという心身の鍛錬をしていれば、整わないわけがなくて、結果的に男(オス)としての魅力が増していく。
というヨガからの恩恵(ギフト)はあるし、それらはわたしを輝かせてくれてはいる。でも、ヨガが深まっているからなのかどうなのか分からないけれど、最近、そういうことについて「だから何なんだ?」と思うようになった。キラキラしている。輝いている。たしかにそれはいいことで、悪くはない。でも、それが本質ではないでしょ? 本質は別のところにあって、そのギフトや結果としてのキラキラではないでしょ、と思うのだ。
では、本質とは何かと言えば、ヴェーダーンタ哲学でいうところのこの現実が幻であって真理だけがあるということだとわたしは思う。きれいになった。カッコ良くなった。メンタルが安定した。毎日が充実していて幸せ。快適で心地いい。って、何か違うし、それがつまらなく思えて仕方がない。だからなのか、道場の人たちから完全にわたしだけ一人、浮いている(気のせいではないと思う)。みんなが「これ楽しいよね。面白いよね。最高だよね」と言っていることにわたしは共感することができない。そのラグジュアリーな感じのハイクラス志向についていけないし、彼らには悪いのだけれど、どうもわたしにはつまらないとしか思えない。わたしはもっと精神的なスピリチュアルな話や本質的な哲学的な話をしたい。どう生きるか、何に意味や価値があるのか、人生とは何ぞや、この現実と世界って何なの、みたいな話がしたい。まぁ、この違いは、わたしと彼らのどちらが高級でレベルが高いかということではなくて、興味関心の方向性が違うだけなのだろう。あんパンが好きな人とクリームパンが好きな人がいるというだけのことで、両者にそもそも優劣などはない。
すべてが幻だとしたら、そして実在していないのだとしたら、それ以上に大変なことはないだろう。すべてをたたき壊してぶち壊すこの幻という考えは、自分が大切にしているこの現実を足もとから無効にして無力化、無価値化する。これ、すごい大事件ですけど。
これが事実だったら、ヨガもマントラ(サンスクリットの聖なる言葉を唱えること)も苦行も瞑想も必要なくなる。幻の中で何をやっても無意味だし、そもそも幻の中で幻でしかない自分が進歩向上したところでそれも幻でしかないのだから、全くもってして意味のない徒労だ。
となれば、この現実が幻である以上、その中では倫理も善悪も意味をなさなくなり、何をやってもいいし、何をやらなくてもいいことになる。やるべきことや達成すべきことなんてなくて、ただ幻があるだけ。
「って、幻、幻って言うけれど、それは事実なの? ただ幻ではないかということに持って行かれていて、間違った頭のおかしいことを言っているだけにしか思えないのだけれど? 大丈夫?」と聞かれればもっともだと思う。でも、じゃあ逆に聞きますけれど、この現実が幻ではないと断言できるのですか? そのことを完璧に証明することができるとでも言うのですか? そう、こういう切り返し方をされると困るはずだと思う。だって、その根拠は自分の五感(あるいは六感)しかないのだから。そして、その五感で感じている感覚が正しいということを自分の五感を用いないで説明したり、証明することはできないはず。と考えれば、科学だって何だって五感あってこそだと思う。すべてのもののベースは自分の五感であって、それ以外には考えられないし、ありえないだろう。五感を用いないで科学的探究ができるかと言えば絶対できない。そんなのムリ。有名なヘレンケラーは目が見えない、耳が聞こえない、話せないの三重苦だったけれど、目や耳の障害に加えて、嗅覚、味覚、触覚という残りの三感(三つの感覚)まで機能しなくなれば、それは死んでいる状態と同じかそれに近いのではないかと考えざるをえないのだけれど、どうだろうか。何も知覚できない状態がどのような状態なのかは現に五感で知覚できているわたしには分からない。意識だけになっているのだろうか。
まぁ、仮に百歩譲ってこの現実がちゃんと実在していて幻ではないとしてみようか。でも、仮にそうだとしても幻のようなものだとわたしには思えて仕方がない。歴史上の偉大な人物、それも日本の偉人たちは結構、みんなそんなことを言っている。平家物語の冒頭なんてまさにそうでしょ。その感覚は仏教的なものだけれど、それをさらにさかのぼっていくとインド哲学へとたどり着く。なぜなら、仏教はそのアンチのようなものだから。
この現実があるのだとしても、わたしという桜の花のような存在はいつかは散ってしまう。実に儚い。だから、あることを認めたとしても、あってもないようなものだと言えると思う。泡のようなものとも言えるかもしれない。たしかに桜の花はその時はあって咲いているかもしれない。でも、散ってしまえばそれは幻と変わらないのではないか。
と、ああでもない、こうでもない、この現実は幻だ云々とぐだぐだやっていたら、パソコンやスマホの電源が突然落ちるかのようにプツンとこの現実、世界がシャットダウンした。そう、長い長い夢が終わったのだ。幻が、立ち現れていた幻が終わったのだ。となるのか、ならないのかは分からないけれど、なぜなのか、どうしてなのかこの現実は続いていて世界はたしかにあるように見えるし、わたしの五感はそう感じている。となれば、あまり難しいことは考えないで、芥川龍之介に言わせれば「不可解」だというこの謎で意味不明なこの現実をそれなりに生きてやっていくしかない。となれば、以前、禅宗のお坊さんがわたしに「現実が幻だからこそ好きなように生きていいのではないか」と言った言葉とつながる。つまり、どうあってもいいのだ、と。それが自由なのだろか。となれば、もう既に何かを手に入れたり、何かをして積み上げていく必要はなくて、ただ自分が今、自由であってゴールにいることに気付けばいいということになるのではないか。いや、ゴールなんてそもそも最初からなかったのだろう。すべてが幻ならスタートもゴールも幻だからだ。
いろいろと書いてきましたが、最後に率直に言います。わたしがヨガの道場で2年間練習してきて分かったことを一言で言うと……、ここ大事ですからね。一番、重要ですからね。2年間、ヨガの道場で自分を見つめ続けてきて分かったことは……
女の人っていいよなぁ。
この一言、ふざけているようで深いでしょ? ノーコメント、ノークレームでお願いしますね。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。
