にぼし

いろいろエッセイインド哲学
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 昨日、スーパーでにぼしを買ってきた。もう少しカルシウムを補給するのもいいかな、と思ったからだった。
 最初はそのにぼしを何も見ようとしないで、無造作に口の中へ放り込んで食べていた。次々に何を考えるわけでもなく、ひたすら食べていた。けれども、ふとなぜか、今自分が食べようとしているにぼしを見たくなって(なぜだろう?)見た。1匹、1匹、ていねいに見ながら食べてみた。
 すると、当たり前のことなのだけれど、同じにぼしは1匹もいない。みんな少しずつだけれど、同じカタクチイワシという魚でありながらも違っていた。となると、わたしがこのことから多様性や共生社会云々という話へと持って行こうとしてるんじゃないの、と読者の方は察し始めているかもしれない。でも、わたしはその1匹、1匹のにぼしを見ていて、そういうことは何も思わなかった。思ったことは、「あぁ、わたしもこの1匹のにぼしでしかないんだな」ということで、急に自分の存在がわびしい、ちっぽけなもののように思えてきてならなかった。
 果たして、この地球上の海の中には何匹の魚がいるのだろう? こればっかりはどんなに博識で聡明な専門家であっても答えられないだろう。というか、仮に分かったとしても、瞬間瞬間ごとに魚の数は絶えず増えたり減ったりしているので、毎秒ごとに、「今は○○匹です」としか言えない。生まれる魚に死ぬ魚という感じで、瞬間ごとに移り変わっていく数字。
 そう考えると、これは魚だけではなくて、人にも言えることで、この地球上での人の数は瞬間ごとに増減して変化し続けている。
 先日、わたしがフェリーに乗った時の話を記事として書いたと思う。3時間あまりのトンボ帰りのような、短い船旅だった。実際に海に出てみると、「海は広いな、大きいな」という歌の通りでどこまでもどこまでも広がっていて終わりがあるんだろうかというくらい広い。この広大無辺と言ってもいいような広い広い海の中にいる1匹のカタクチイワシ。そのことを考え始めると、別にそのイワシがこの海にいてもいなくても同じではないかと思うし、いなくて困るということもないのではないかとわたしはふと思った。
 だから、この1匹のカタクチイワシのような存在でしかない、地球から見たらチリとホコリにもならないほど小さなわたしがどう生きようとか、何をやっていこうとか別にどうでもいいんじゃないの? 生きようが死のうが別にどっちでもいいんじゃないの? どうしてより良く生きていかなければならないの? どうして生きることを否定して死んでいってはいけないの? 自分をにぼしのようなものだと思った瞬間、次々に自分の中から率直な疑問のような思いがわいてくる。
 ヨガをやり、心身を整えて、いろいろなものを手放していくに従って、自分も含めた物事がどうでもよくなってきた。いや、よくなってきてしまったと言うほうが正確だろうか。だから、自分のことについても、生きたければ生きていていいし、何をやってもいいし、反対に死にたくなれば死んでいいし、という感じでわたしの中にあった「こうあらねばならない」「こうすべき」という規範ははがれ落ちてしまった。倫理、善悪、美醜、貴賤、好悪、規範といったもろもろの価値観のようなものも、もはや力を持たないし、わたしを縛り付けてはいない。となると、本当に自由な風のような状態になってくる。
 だからなのだろうか。もう、いいかなっていう気がしてきた。自己実現をしていって、自分を高めていってもたかが知れているような気がしてならないし、どんなに快楽を求めていってもそれすら、その時にはそれなりに気持ちいいのだけれどそれだけのことでしかなくて、「あの時は楽しかったね」「あの食事はおいしかったね」「あの時はすごく気持ち良かったよね」と過ぎ去っていってしまう。どんな花火も終わってしまう。永遠に輝き続ける花火なんてない。花が咲いたと思ってもしばらくするとしぼんでしまう。そして、その花火や花が素晴らしければ素晴らしいほど、それが終わった後には虚脱感や無力感に襲われる。
 それにわたしにはすべきことや達成すべきことなどもない。世の中を良くしていこうとか素晴らしい場所にしていこうという情熱などはほぼほぼ一切ない。わたしがどんなに人や世の中に貢献しても、みんないずれは死んでいくし、移り変わっていって何も後には残らない。100年後、いや2000年、3000年後から見たらわたしが何をやろうが本当にそれはどうでもいいことでしかない。だからなのか、社会や世界を良くしていくことには興味関心がない。今、わたしが興味関心がある現世的なものと言えば、お金と女の人くらいだろうか。どちらもわたしを楽しく気持ちよくしてくれるから好きなだけで、そもそも人のため、世のためがどうこうということはどうでもいいし、興味がない。
 わたしは1匹のカタクチイワシのような存在でしかない。そして、わたし以外の人間もそのような1匹のイワシでしかないとしたら、自分が価値がある最高級のイワシであることをひたすら証明しようと躍起になっているだけにしか見えないわけで、別にどうでもいいじゃんって感じだ。そうですか、あなたは世界一のイワシさんですか。最高級のイワシさんなんですか。本当、そういうのアホくさいだけだし、同じイワシに上も下も何もないと思いますけど。むなしいとかどうというのも通り越してバカらしくもなってきた。
 とそこに聖なるイワシが1匹やってきてこう言った。「すべては幻だ」と。地球も、海も、そしてその中にいる無数のイワシたちも幻でしかなかった。だから、それらはそもそも何もなかっただけのことだった。それが聖なるイワシによると結論らしい。すべてを破壊するかのような聖者ならぬ聖イワシのありがたい(?)一言をどう受け止めるべきなのか。別のイワシはそれを聞いてこう言ったそうだ。「すべてが幻なら幻なんだろう。すべてが幻でないなら幻ではないのだろう。それだけのことでしょ」と。
 わたしはどうしたいのだろう? そう聞くまでもなく、ズルズルこうして生きている以上、ズルズルと生きていたいのだろう。たぶん、もういいかなって心の底から思って、その通りにしたいと思ったら、ためらうこともなくわたしはこの世から自ら退場しているはずだ。それがいいのか悪いのか、わたしには分からない(キリスト教的には悪いことなのだろうけれど)。あるいは、自らの意思とは関係なく何らかの理由によって強制的に退場させられているかもしれないし、こればっかりは分からない。
 ズルズルとああでもない、こうでもないと思い悩んで考えているのならたぶんそうしていたいからそうしているのだと思う。自分が何をやりたいのかどうしたいのかも分からず、ただただ無為な毎日を送っているのなら、その生活を今はしていたいのだろう。本当に自分で変わりたいと思えば、誰かから「あれをやれ」「これをやれ」などと言われなくても変わろうとやり始めるだろうし、やっていることだろう。
 どんなにキラキラしていても、どんなに自堕落で荒んでいても、同じイワシ、いや、同じ人でしかない。人と言うよりも「ヒト」と書いたほうがいいかもしれない。結局、どんなに頑張っても「ヒト」が「ウシ」や「カブトムシ」になることはできないのだから、キラキラしていても所詮は同じ「ヒト」でしかない。世界一のイワシも世界で一番ダメなイワシも同じイワシ。人も同じ。
 なんて、くどくど書いてきたけれど、こんなグチグチした理屈はいらなくて、ただ1人の(あるいは複数の?)女の人から「大地、大好き!!!」と熱烈に愛されれば終わるだけの話なのかもしれない。そうなれば、また強烈な執着、愛着を新たに持つことになってしまうけれど、欲望がゼロになったら人は生きていけないし、死んでしまうのだろう。欲も必要なのかな。

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