やなせたかしと言えば、今、朝ドラで「あんぱん」をやっていると思うので、あぁ、アンパンマンの作者だなとみんな知っていると思う。で、やなせたかしの本を少しばかりかじるような感じで読んでみて、思ったことがあるので少々書きたい。
彼の思想にはなかなか問題がある。まず、一つ目。「何のために生まれて何をして生きるのか? 答えられないなんてそんなのは嫌だ」というアンパンマンのマーチという日本人だったらみんなが知っている歌の中の歌詞だけれども、この歌詞はきついなぁって思う。というのは、はっきり言ってしまうと、人生の目的が分かっている人なんてそうそういないからだ。何のために生まれたのかなんて究極的には分からないし、仮に分かったと思ったとしてもそれが正しいのかどうかというのは不明だ。
たとえばある人は「わたしは文章を書いて人を幸せにするために生まれてきたんだ。だから、文章を人生の多くの時間を使って書きたい」と思ったとする。まぁ、当本人がこれが人生の目的でそのために生まれたんだと意気揚々と使命感を持って生きて幸せな状態になっているのなら別に悪いことではないし、いいとは思う。でも、冷静に考えてみるとそれが人生の目的だという根拠はあるのだろうか? 直感とか神様からの啓示だとか人生がそう語りかけてくれたからなどとその答えが分かった人は言うだろう。つまり、その人は何のために生きるのかという人生の答えが分かったということになる。
しかしながら、その答えは誰にとっての正解なのかと聞かれると答えるのが難しくなってくると思う。他の人はどう思うかは知らないけれど、わたしがそう思うからこれが答えで正解なんだということなら、少なくともその人にとっては答えであり正解だということにはなる。となれば、どんな答えでも自分が正しいと思えばオッケーなのだから、それがどんなに反社会的なことであっても人道に反することであっても正しいということになる。
こういう感じの人が持ち出してくる根拠というのはおそらく自分が直感的にそう思ったとか、まわりの人がそれを支持して「いいね」と言ってくれている。さらには、それが多くの人たちから見て、言い換えれば社会が認めて賞賛しているからだということではないかと。中には「わたしはこの地球上から人間を滅ぼして人類の歴史を終わらせるために生まれてきて、それをしていこうと思っている」という人もいるかもしれないけれど、そういう人は滅多にいないだろう。
何のために生まれて何をして生きるのかと考えたところで、あるのは毎日の暮らしと生活だけで、答えが浮かんだとしてもそれを確信するのは難しい。となると、絶対的な存在である神様を持ち出すというのが一番手っ取り早い方法で、その権威にその自分の答えの正しさを保証してもらおうとする。自分が、みんなが正しいと思っている答えなどとは比べものにならないほどの正しさを持つ絶対的な人生の目的であり答え。神様が誤るわけがない。だって神様なんだから。絶対なんだから。そう考えると人は虎の威を借るではないけれど、揺るがない権威を求めてそれに従いすがりたいということなのだなと思う。実際、わたしがクリスチャンになったのも、神様という絶対的な正しさに従うことでこれが自分が生まれてきた目的であり意味なんだと思いたかったからではないかと教会を離れている今、冷静に眺めているという次第だ。
もしかしたら(いや、もしかしなくても)神様はちゃんとおられて絶対的な人生の目的というものがしっかりとあるのかもしれない。ちゃんとあって、それを見出して分かっている人と分かっていない人がいるだけのことで答えはある。かと思いきや、それはいわゆる妄想、妄信、空想、迷信の類でしかなくて、絶対的な答えなんてないんだというのが答えなのかもしれない。どちらなのか、クリスチャンであるにもかかわらず、今のわたしには分からない。でも、一つ確実に言えることは、その答えではないかといういわゆる答えの候補のようなものは、誰かによってそう認識されているということで、誰にも認識されていない答えはそもそも頭の中に思考として浮かんでこない。だから、誰かが正しいと考えたり思っている、誰かにとっての答えがたくさんあるような状況となっている。みんな、これが答えではないかといろいろ考えて思っている。その根拠は? その根拠に絶対的なものを求めていくとおられるのかどうかは分からないけれど、神へと向かっていく。それが実際に向かっているのか、ただ妄想しているだけなのかは分からないけれど、人はそれを求める。
そして、このやなせたかしの「何のために生まれて」という一連の思想の厄介なところはこれが脅迫観念的にはたらいてしまうことが多い点だ。本来は多くの人たちが人生の意味や目的が分からないながらも、それなりにまぁ言い方が良くないかもしれないけれど、平々凡々にやっていって、それなりの人生を送って死んでいくのに、何かそれだけではダメなように思えてしまう。「何のために生きるのか分かったらいいね」とか、「分かるかもしれないけれど分からなくてもいいんじゃないの」くらいだったらいいものの、それが「何のために生きるのか分からなければならない」「人生の目的が分からない自分はダメな人間で人生を生きることができていない」となってしまう。やなせたかしは人生の目的が分からなければダメだとは言っていない。そこまでは言っていない。でも、何かダメだと言われているように受け取る人は多いのではないかと思う。
おそらく普通に毎日を暮らして、普通に生きて、劇的なこともなく普通の出来事しか起こらなかったら人生の目的を雷か何かに打たれたように分かることはないだろう。「何のために生まれて」というのはある意味、飛躍のようなものを必要とするのではないか。自分が「これだ! これがわたしが生まれてきた意味なんだ、目的なんだ!!」と悟ったかのようになるか、あるいは外部から(神様などから)「あなたはこのために生まれてきたのです」と教えてもらうかという飛躍が必要ではないかと思う。じんわり、じわじわと悟る人もいるかもしれないけれど、多く語られるのは劇的な回心だ。つまり、そう思う、「これが答えなんだ!」という冷静さを失ったある意味、反則技のようなものを使わないと確信することは難しい。「これが答えなんだ! 絶対そうだ!!」のように妄信する勢いを必要とする。
人生の目的が分からないまま死んでいくことを否定的な言葉で書くくらいなのだから、やなせたかし自身はそれが分かっていたのだろうし、確信できていたのだろう。と、あまり知られていない話だけれど、彼も反則技を使っている。「彼も」というのはわたしと同じように彼もキリスト教徒だったからだ。絶対的な根拠として彼には神様があった。正直、自分が教会へ行き、キリスト教のことを知るようになるまでは、やなせたかしの言っていることがほとんど理解できていなかったし、分からなかった。それもそのはずで、彼の思想の背後にはしっかりと神様がいて、ぐらつかないように根っこのところで支えているのに、それを世間に向けて発表する時にはまるで無宗教であるかのように装っていたからだ。
キリスト教という軸で彼の思想を見てみると、あぁそういうことかと納得できる。アンパンマンが自分の顔をお腹がすいている人に分け与えるのはキリスト教的な自己犠牲の思想だし、アンパンマンがヒーローとして弱さをも持ち合わせているのはキリスト教がそのことに価値を見出しているからに他ならない。
キリスト教徒にとっての最終的な目的地はもちろん天国に行くことで、やなせたかしもそのことは分かっていたと思う。でも、彼はすごく賢くて頭のいい人だったから、そういった宗教色はあえて出さなかったし、それを出した途端に世間一般の多くの人たちから敬遠されて警戒されて距離を置かれることは分かっていた。これはわたしの勉強不足な勝手な想像でしかないかもしれないけれど、「何のために生まれて」という問いの答えとして「天国に行くこと」だと気付いてほしかったのかもなぁって思う。クリスチャンでそう思っている人は実際多いだろうから。大衆を迷える羊だと見ているところがある。
次に二つ目。「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんなみんな生きているんだ 友だちなんだ」というやなせたかしが作詞した歌もかなり問題だと思う。というか、わたしが他の生き物を殺すことに違和感や嫌悪感を感じるきっかけとなったのがこの歌だからだ。みんな友だちで、みんな大切な存在で、どんな生き物もみんな価値があって素晴らしくて尊い。言うのはとてもやさしい。この歌、小学校の教科書にも載っていた(と思う)。
でも、まともにこの歌と向き合おうとすると感受性が鋭いある程度考えることができる子どもは混乱して困惑する。じゃあ、何で他の生き物を殺して食べてるの、という話に確実につながっていくからだ。
「牛さん、豚さん、鶏さん、魚さん。みんな友だちなんだよね? じゃあ、なんで殺しちゃうの? 殺して食べちゃうの? わたしはクラスの友だちは殺して食べないよ。おかしいよ。友だちを食べるなんておかしい。ひどいよ。」
食べることを真面目に考えていくと、動物や魚だけではなくて、植物も生き物で友だちだということに気付く。さらに年齢がいってある程度考えられるようになってくれば、飲み水もその中にいる微生物などを薬品で殺菌して殺していることも分かるようになる。食べ物だけではない。道だって土の上にコンクリートを流し込んで固めてしまうわけだから、その土にいたたくさんの生き物は殺してしまっているし、家だってそこに住んでいた動植物を滅ぼして根絶やしにしている。
こういうことを小さな哲学者の子どもが言うと「動物さんたちに『いただきます』と感謝しようね」と大人たちはごまかそうとして、そして、多くの子どもたちはその考えに誘導されて疑問に感じて問うことをやめていく。しかし、明らかに「ありがとう」「いただきます」と言えば、それで殺して食べることが認められるというのは飛躍している話だ。学校のクラスメイトや友だち、あるいは家族や親しい人たちなどを「いただきます」「ありがとう」と言ったからといって食べていいなんていうことにはならないだろう。
こうした難しい問題にまったくふれようとしないで「みんな友だち」だと安直に無責任に言ってしまう。そして、その言葉がたくさんの子どもたちに無神経に浴びせられ、看過できない規模の影響を与えてしまう。やなせたかしのこの言葉に触発されて、殺生の問題に悩んだ人がわたしくらいなのかは分からないものの、少なくともわたしにとっては問題への入り口だった。
「みんな友だち」。友だちですか? じゃあ、何も食べられないし、水さえ飲めないですけど? となると、行き着く先は断食死しかない。やなせたかしはそういうことはもちろん言っていないけれど、その「みんな友だち」ということをただの言葉ではなくて、実践しようとすると生きることの否定になることは避けようがない。「みんな友だち」という一見、美しいように聞こえる言葉ほどヤバイ考えはない。アヒムサ(非暴力)というヨガの高尚な教えも極端なまでに突き詰めて徹底していくと、ジャイナ教の一部の人たちがやっている断食死となる。だから、本当に優しい人は生きていけない。「他の生き物たちを殺して命を奪うくらいなら生きていたくない」と思う美しすぎる完璧な人はこの地球上には一人もいない。アヒムサという非暴力を完全に守れている人はいないのです。その人は完璧な義人そのもの。
友だちは食べない、はず。だから、みんな友だちというのは嘘だということになる。あるいは食べてもいい友だちと食べてはいけない友だちがいる? 友だちは食べ物じゃないと思いますけど。普通は殺さないと思いますけど。わたし、何かおかしいことを言ってますか?
「何のために生まれて何をして生きるのか」
何のためであってもいいし、何のためでなくてもいい。何をして生きるのも、何をしないで生きるのも自由。わたしはそう思っている。やなせさんは何のために生まれたのか分からないというのが嫌だったみたいだけれど、何のために生まれたのか人間には分からないからこそ、聖書を読み、神様に聴こうというのがキリスト教なのだと思う。でも、そもそもその神様がいるのかどうかさえ、今のわたしには覚束なくなっている。でも、そんなわたしであっても神様は見放さずに見守っていてくださっている、のだろうか? 異文化で異教のヨガばかりやっている放蕩息子であっても見放さずに帰ってくるのを待っていてくださっているのだろうか? ヨガという自己鍛錬の放蕩(言葉として矛盾してておかしい)の結果、心も体もたくましくなってますけど、これも神様からの恵みなんだろうな、って? って、ミックスでごちゃごちゃのチャンポン。
切り傷やすり傷には、消毒液ではなくあんパンをつけてなおしましょう。やなせたかしが一番言いたかったのはたぶんこのことだと思う(!?)。ふざけるのはいい加減にしろ? じゃあ、みんな友だちのはずなのに、どうしてバイキンマンをいつもアンパンマンは殴るの?(前後の流れは無視)あんパンチするの? そうだね、アンパンマンはバイキンマンのことが好きだから殴るんだよ。殴っている時、たまらなく快感なんだよ。
最後にふざけて幕引き。撤収~。テッテケテッテ~♪

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。