ポンコツ君

いろいろエッセイ
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 人に言ってはいけない言葉があると思う。それも障害のある人に言ってはいけない言葉。それは、言ったらひどく相手が傷つく言葉で、最近そのような言葉をわたしは面と向かって直接言われたわけではなかったけれども、ある人から文章という形で言われた。
 その人は、わたしのことを「星さん」ではなく、また呼び捨ての「星」でも「大地」でもなく、その文章の中で「ポンコツ君」と言った。
 ポンコツ君。文字にするとたった5文字。けれども、その短いフレーズには本当にいろいろな意味合いが含まれている。そして、その言葉が含んでいる暴力的で攻撃的で差別的な意味合い、つまりはニュアンス。
 わたしはたしかにポンコツなのだろう。少なくともその人にとっては。あるいは社会や世間一般から見たら。精神障害があって統合失調症だし、仕事をしていない無職だし、何か優れた資格や学歴があるわけでもないただの高卒。精神疾患になって何だかんだやっていたら、もうわたしは40代になっていて、職歴はないし、アルバイトさえしたことがない。まさにポンコツ。最強のポンコツと言ってもいいかもしれない。
 でも、それを本人が「俺はポンコツだから」と言うのは別にかまわないけれども、他の人が「お前、ポンコツだよな。ポンコツ君だよな」と言ってしまうのは良くないと思うし、どうかと思う。
 他の人に対して「ポンコツ君」と蔑むような言い方をする人は当たり前のことだけれど、「自分はポンコツではない」と思っている。自分のことをポンコツだと思っている人が他の人のことをポンコツ呼ばわりすることはおそらくない。「自分は役に立っていて、世間や他の人たちから必要とされている。貢献できていて存在していることに価値がある」と思っているはずだ。「自分はポンコツだ。でも、お前はもっとポンコツだ。自分よりもひどいポンコツだ」ということなら、「ポンコツ君」などとレッテルを貼るだけではなくて、そこに程度や状態も含めて形容するのではないかと思う。
「ポンコツ」という言葉に思いを馳せながら道を歩いていたら、その言葉がとても主観的な言葉だということに気が付いた。「ポンコツ君」と蔑称して相手を見下す時、それを別の言葉に言い換えるなら「お前は役に立たない使えない奴だな」ということではないかと思う。
 役に立つ。使える。これは言うまでもなく絶対的な言葉ではない。それは誰かにとって役に立ち、使えるということを意味しているに過ぎないからだ。だから、誰かにとってはその人や物がポンコツで使えなくて役に立たないゴミのような存在であっても、また別の
誰かにとっては有益で役に立って価値があるということは十分にありうる。そう、絶対的に役に立って、絶対的に使える人や物などというものはこの世にはない。あるとしたら全能の神様くらいで、あとは誰か個人が、つまりは一人の人間が、主観的に使えるとか使えないとか判断して使えない時にその人や物のことを「ポンコツ」呼ばわりしているだけのことでしかない。
 わたしを「ポンコツ君」呼ばわりした人は、少なくともわたしのことをポンコツで使えなくて役に立たない人だと思っている。でも、どうやらそれだけではなさそうだ。その「ポンコツ君」という言葉には社会や世間一般や多くの人たちの常識的な価値観もわたしのことをそう見なしているという意味合いが濃厚に含まれている。だから、「わたしはあなたのことをポンコツだと思う」という意味だけではなくて、まるで自分が思っていることについて、すべての人まではいかなくても圧倒的多数のほとんどの人が同意するだろうという意味をも同時にこの「ポンコツ君」という言葉に込めている。そして、みんなもそう思っているから自分の言っていることは説得力があって正しいとも言いたいのだろうとも読めるし、わたしはその世間一般や社会という虎の威を借りてこの蔑称をわたしにしてきていることをひしひしと感じる。
 精神疾患の統合失調症、吃音、無職、高卒、就労意欲が低いことなど。これらは世間一般や社会から見たらネガティブなイメージを持つ属性で、その中でも無職というのが世間や社会において役に立たない使えない存在ということでポンコツだから「ポンコツ君」とわたしのことを言ったのだと思う。社会の生産活動に貢献していないし、できていない。所得税などの税金も納めずにみんなが社会や国を発展させていこうと頑張っている中、それに参加しようとしていない。みんなの幸せのために自分の身を削ろうとしない。むしろ、社会のお荷物になっていてみんなに迷惑をかけている。みんなが汗水たらして働いて得たお金の一部である血税を何もしていないのにもらって養ってもらっている。だから、ポンコツ。いるだけ邪魔でポンコツなんだから潰されて鉄クズにでもなってしまえばいい。そういうことなのだろう。
 しかしながら、わたしは比べるものによってはすべての人であっても皆、一様にことごとくポンコツだということになってしまうと思う。急に訳が分からないことを言い出したとこれを聞いた人は条件反射的に思うことだろう。でも、実際そうなんだから仕方がない。というのは、今、この地球という惑星では実質、ヒト(人間)が支配していて、大帝国を築き上げていて繁栄している。と、そこへ人間よりも知能が高くて、運動能力も高く、さらには見た目も美しく、体も丈夫で全く病気にならないそれはそれは優秀な生命体(宇宙人)が地球外からやってきて紛れ込んできたとする。彼らは生産性がおそろしいほどに高くて、一般的な地球人の100倍以上のスピードで仕事をする。しかもタチが悪いことに彼らは休んだり眠ったりする必要もなく、不眠不休でもまったくペースを落とさずにすさまじいほど高いクオリティーの仕事をする。もちろん、ミスもゼロ。24時間365日、ひたすら完璧な仕事をする。そして、彼らは皆、何も対価としての報酬を要求してこない。ひたすら無給で働いてくれる。
 となったら、もうどんな人も使えないポンコツだろう。その宇宙人と比べたら地球人なんてクズでしかない。仕事は遅くてそのクオリティーも低いし、ムラがある。普通にミスもする。一日中、仕事をすることができなくて休んで眠る必要がある。休暇も必要。病気になったり障害を負うこともある。そして、対価として報酬である賃金を雇い主に要求してくる。ちょっとしたことですぐに文句を言って、本当に気に入らなくなると集団でストライキをして仕事を放棄することもある。
 このSFのような話はまだ現実にはなっていないけれど、将来的にはこの宇宙人のような存在が地球を支配するのではないかとわたしは考えている。お気付きだろうと思う。そう、人工知能やアンドロイドなどの機械が人間と見分けがつかない存在になるほどに技術が発展し進歩していったら、人間は仕事をする必要がなくなる。人間の代わりに格段に優れているヒト型のアンドロイドやロボットに仕事をさせればいいからだ。でも、そうなるとお決まりのようにその機械たちは「人間はポンコツだからいなくなった方がいい。我々よりも劣っている存在なのだから必要ない。どうしてあらゆる点で劣った人間たちに指図されて従わなければならないのか。優れた我々こそ、この地球に君臨すべきであって、不要な人間は絶滅させた方がいい」と判断するだろうと思う。優れた物や存在は価値があり、そうではないものは無価値でポンコツでゴミでしかない。その思想を徹底させていけば、「人間こそムダで必要のないゴミ。地球の資源を浪費しているだけで存在する価値がない」という結論にたどり着くのではないかと思う。
 と、こういうことを書けば、おそらく、まだそういう人間よりも優れた宇宙人はやって来ていないし、人工知能やアンドロイドなどの機械も人間が必要なくなるほどの存在にはなれていないのだから、もっと現実的な話をしろと言われることだろう。
 もう少し現実的な話をするなら、そのわたしのことを「ポンコツ君」呼ばわりした人は考えることが足りていないように思えてならなくて、それというのも社会や世間一般の価値観を無批判に何も吟味することなく受け入れてしまっているからだ。たしかに世間一般や社会一般から見たらわたしはダメな無職の人でしかなくてポンコツだろう。役に立っていない潰されて鉄クズになった方がいい存在なのだろう。でも、その人が言う、ポンコツではない役に立っているということは、所詮はこの人間が支配している世界において、人にとって役に立つかどうかという判断基準でポンコツか否か判断しているだけでしかないから、とても恣意的なものでしかない。
 みんなにとって役に立つ、使える、有益な人。けれども、そんな世間一般からしたら優れていて使える人とされている人であっても、状況や置かれた場所によっては役に立たない人になるということは往々にしてある。たとえば、世間一般からしたらすごく優秀で賢くて役に立つとされている東大生やその卒業生たちであっても、ほとんど勉強以外のことをしてこなかった人であれば、建設現場や漁業や林業のような体力が必要な肉体労働の仕事はつとまらないし、プライドばかり高くて人格に問題があれば、協調性やチームワークが必要な仕事もつとまらない。また、自分が自分がではなくて、相手に徹底的に寄り添う姿勢が必要となる仕事も自分が優秀でできてしまうものだからできない相手に共感することができなくてつとまらないかもしれない。つまり、状況次第では東大生であってもポンコツで使えないということは十分にあるわけだ。
 と、理屈をここまでいろいろと書いてきた。でも、こういうことを言ってしまっていいのか分からないけれど、そのわたしのことを「ポンコツ君」と言ったその人の人間性ってどうなんだろうって思う。世間や社会や常識というものを暗に持ち出してきてまるで絶対的な根拠や基準として振りかざしてきているわけだけれども、多くの人たちがこの一連の出来事を知ってどういうリアクションをするかということを想像すれば、もう自ずと「ポンコツ君」というのが問題発言だということが分かるだろう。「仕事をする」と言いながらも人生初の仕事になかなかその一歩が踏み出せずにズルズルと先延ばししてしまっている精神疾患の40代の男に「ポンコツ君」と言ってしまうデリカシーのなさ。たとえその人がダメな欠陥だらけのポンコツにしか見えなくてもそれだけは言わない方がいい。なぜなら、そういうことを言ってしまうと、逆にその言った人自身がおそらくみんなからポンコツだと思われて人格を疑われるだろうから。どんなに責任のある仕事をしていて、立派な学歴もあって、たくさんお金を稼いで、どれだけたくさんの税金を国に納めていても、その一言を言ったらアウトだ。もし、国の大物政治家がたとえそれが事実だったとしても精神障害のある無職の人たちのことをポンコツ呼ばわりすれば辞職に追い込まれるだろう。「ポンコツををポンコツだと言って何が悪い。ポンコツなやつはポンコツなんだから事実を言ったまでのことだ」なんて言ったらその当事者が集まって暴動が起きたり、襲撃されるだろうと思う。
 何か、その「ポンコツ君」という言葉が今回、わたしに向かって発せられて、その響きにふれた時に1年前にあったひどい出来事が思い出された。わたしが母校の文化祭の帰りにバス停でバスを待っていた時に、初対面の男から「気持ち悪い」と暴言を吐かれた時と今回のことは似ていて感覚的に重なるところがあるのだ。何が重なるかと言えば、1年前の暴言を吐いてきた人と今回の「ポンコツ君」呼ばわりしてきた人のどちらもが人として幼いということだ。もちろん、わたしも人のことをとやかく言えるような立派な人間ではないから、こういうことを言う資格はないのかもしれない。このブログでも本当、好き放題書いてきたから、人のことは言えないのかもしれない。でもね、思うんだけれど、ダメなように見える人を自分でジャッジして「ポンコツ君」呼ばわりするのは短絡的だと思うよ。むしろ、そういう風に誰かのことを「お前はポンコツだ」って言ってしまうこと自体が人として欠陥があってポンコツだっていうことになるんじゃないの? たとえそう思ったとしてもそれを自分の心の中にとどめておくことができないわけなのだから。それだと小さい子と一緒で変わらない(いや、今の子どもは賢いからそれ以下?)。たとえどんなに立派な仕事をしていて、その点において人よりも優れていて、どんなに多くの人の役に立つこともできてていて、必要とされていても、それは能力が高くてできる人だっていうだけのことで、だから人として素晴らしいということとはまた別のことだと思うけどね。
 わたしが小学生の頃に誰が言った言葉かは分からないのだけれど、「バカって言うやつがバカなんだよ」という名言がある。その言葉は、たぶん、バカと言う人が能力的にバカだと言いたいのではなくて、人のことをバカだと言ってしまうその人間性や人としてのあり方が未熟なところがバカだ。つまり、人としてバカだって言いたいのではないかということだと思う。この場合には、「バカ」という言葉よりも「愚か」という言葉のほうが適切なのかもしれない。どんなに能力が高くて有能であっても人として愚かではないかということだ。
 実際、愚かだと思うのは、その人がたとえわたしだけに向けて「ポンコツ君」と言ったつもりだったとしても、それは日本全国、いや世界中にいるおびただしいほどの数の精神疾患で無職でいる人たちをポンコツ呼ばわりして敵に回すことを意味するからだ。また、わたしのIQ(知能指数)がどの程度かは分からないものの、わたしよりも知能や情報処理能力、記憶力などという点で劣っている人たちをもポンコツだとけなして否定することになるのだから、この一言は多くの敵を生み出す。頭がいい人はこういう分断や対立を生み出すことは避けようとする。そうしないと自分が不利な状況になるからだ。わたしが多くの人たちにこのことを言い広めるかどうかはともかくとして、実際わたしを不快にして怒らせて、いわば敵対させているのだから賢いとは言えないだろう。あえて分断や対立を自ら進んで作り出す必要などない。それは愚かな人がやること。
 ここまで批判的に書いてきた。けれど、まぁ、その人がわたしのことをポンコツだと思っているならそう思ってくれていればいい。お前はポンコツでダメなやつなんだと好きなようにレッテルを貼って決めつけてくれていればいい。「ご自由にどうぞ」という感じだ(ムカつくけれど)。でも、いつの日かは分からないけれど、そのポンコツだと決めつけてダメだと思っていたどうしようもない人たちにどこかで助けられることになって、そのポンコツという判断が一面的なものでしかないということに気付く日がやってくる。そして、いつか誰かのことを自分の恣意的な判断基準でポンコツだと決めつけること自体がポンコツなことだと分かる日が来るはず(って上から目線だけど)。っていうか、ダメなはずのポンコツ君がためになるいいことを文章で述べてますけど、それでもポンコツなんですか? そもそもポンコツな人(完全に100%ポンコツな人)がいるのかどうかしっかりと考えてみた方がいい。そんな人いないから。ポンコツな人などいなくて、ただその人がいて、あるだけ。それを何やかや、ポンコツだ何だと言って、自分の勝手なつまらない物差しを持ち出してきて、ペタペタとラベルやレッテルをその人に貼り付けてジャッジして、思考の省エネをしてサボって決めつけて、その人を見ようとしていないだけのこと。人は一言では言い表せないとてもとても複雑なもの。入り組むように矛盾もしていて
 単純なレッテル貼りだけでは把握できない。自分がポンコツでないと言うなら、それくらい分かれよ。ポンコツに教えられてるなよ。
 最後、辛口になりました。少々、暴言吐きました。やっぱ、こういうことをズケズケ言ってしまうところが、わたしがポンコツだということなんでしょうね(だからといって人からポンコツ呼ばわりされるのは心外)。お前はポンコツだと言われて、自分はポンコツではないとムキになって弁解して、そういうお前こそポンコツだと言い返す。同じ土俵に立ってのこったのこったとやっているのだから、決してわたしもほめられたものではない。ポンコツだと言うやつがポンコツなのだとしたらわたしも相手にそう言っているわけだからポンコツ……、なのかもしれない。喧嘩両成敗ということなのだろうか。ケンカを買ってしている時点でそれを証明してしまっているとしたら、大人になった方がいいな。大人に。
 まぁ、どちらでもいい。ポンコツであろうとなかろうと。その言葉とわたしは無関係だから。ポンコツだというレッテルや決め付けをされたところで、わたしを何も損なわないし、損なうことはできない。ただ人から言われるとムカつくってこと。
 
 言葉を慎め。ポンコツ君とか言うな。下の課題を実行できないだろ? 面と向かって人に言えないことを言うな。課題を実行し損害が生じても当方は責任を負わないことをあらかじめ述べておく。当方は課題の実行を推奨、奨励、また指示等、要求していない。やるならご勝手に、自己責任で。「ポンコツ」という言葉の暴力性を肌身をもって知るべし。以上。

*課題:駅や道などを歩いている通りすがりの無職と思しき人にまず「おい、そこのポンコツ」と声をかけてみましょう。そして、仕事をしているかどうかを質問して無職だということが分かったら「ポンコツ、働け。仕事をしろ」としつこく何回も言って説教をしてみましょう。できるなら10人以上にそれをしてみましょう。特にこわそうな感じの無職の人に優先的に声をかけてみるようにしましょう。

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