ネット断ち日記~テキトーな33日間の記録~

ネット断ち日記
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 1日目

 まず一言。「一念発起しました」。
 これより少し前に、ほとんど使っていないということもあって、これまた思い切って、ケータイ(ガラケー)を解約した。そしたら、ものすごーく、ほとんどケータイを使っていないような感じだったのに、自分の体が軽くなって軽快になった。それに味をしめたということもあって、それならネットもしばらくやめてみようかと思った次第、でござる(?)のです。
 ただ、自宅のネット環境自体をもう完全にやめるというのはハードルが高いなと思った。ネットを解約してみて、やっぱりまたどうしてもやりたくなったら申し込むというのもできないことはない。でも、それはなかなか気軽にできることではないし、費用だっていろいろかかる。それだったら、とりあえずネット環境はそのままで(ネットにつなぐためのルーターなどの機器は今も普通に動いていて健在)、ネットにつながる端末のiPadとかノートパソコンを物置へしまって強制的なネット断ちをすればいいのではないかと思った次第。これだったら、ネット断ちをやめたり、また、したりと好きだけ繰り返すことができる。ネットを解約して工事をして、またつないで工事をして、みたいなことをしなくて済むからすごく合理的でさえある。
 わたしは何かにすぐに依存してしまう人間で、ネットにも依存していた。気が付くと5~6時間はやっていて、それをやった後に何をやっていたんだろうと思い出そうとしても何をやっていたのかほとんど思い出せないし、ネットの履歴を見ても本当にどうでもいいようなサイトしか見ていない。時間ばっかり使っているだけで、ほとんど何もその後に自分に残っていない。
 さらにはメンタルがネットを連日のように何時間もやっていると悪くなってくる。自分はダメな人間でクズで存在している意味などないとキラキラしている人たちと自分を比べては落ち込んでいた。
 とにかくネットをやっていると、自分が持っていない物やできていないことなどが気になって仕方がなくなってくる。自分だって満更捨てたものでもないのに、それが見えなくなってくる。
 だから思った。これ、いらないんじゃないのって。便利ではあるけれど、その自分を落ち込ませる情報いらないよね、って。
 そういうわけで、やってみたいと思った。ネット断ちをやってみたいと思った。でも、わたしは弱い人間だから、部屋の中で今までのように普通にネットができたら絶対やってしまう。だから、強制的にネット機器を物置へ撤去したわけだ。
 1日目ということで図書館へ行った。ネットの地図が使えなくなったから、そして、ネット検索ができなくなったから調べ物ができる場所を確保しておきたいと思ったからだ。
 というわけで、人生初の図書館のレファレンスサービスの利用だった。図書館のスタッフの人に調べ物をお手伝いしてもらえるという便利なサービスだ。スタッフの人に「○○について知りたいので本を探してほしい」と頼むと探してくれる。
 今日はわたしは地図がほしかったから地図を探してもらった。街歩きに使えそうな感じの地図だ。紙のタウンページは以前、取り寄せてあったから、そのお店の住所をもとに行けるようにという目的の地図。
 で、図書館のスタッフの人に探してもらったら最高にグッドチョイスな地図の本を探して見つけてくれて、その本がその図書館にあったから借りることができた。すごい。図書館の人ってプロ。ただ、本の貸し借りをしているだけの人じゃなかった。すごい人だった。わたしを含めた多くの人が知らないと思うけれど。
 今日、思ったことはもっと人に頼ってもいいんだなっていうことだった。今までのわたしは人に何かを頼ることや自分ができないということが恥ずかしいことだと思っていた。でも、もっと頼っていいんだ、良かったんだと分かった。自分が分からないことや知らないことをネットで調べることも悪くはないけれど、今までのわたしは人に頼ろうとはしないで何から何まで自分で解決しようとしていた。
 今日、街へ出てみたら、100円ショップでセルフレジだったんだけれど、そのレジの様子が見えるところにコピー機があって、借りた地図の本をコピーしていたら、いろんな人がいるということが分かった。お客の年配のおじいさんやおばあさんは大抵、セルフレジができなくて、そこにいる100円ショップのスタッフに教えてもらっていた。その様子を見ていたら、分からないこととかできないことは別に恥ずかしいことでも悪いことでもないんだなって分かったんだ。
 というか、何でもかんでも自分でやらなければならなくて、人に頼ってはいけないということだったらお店に店員は必要ないということになる。また、お店に限らず、すべての問題を自分で解決しなければならないのだとしたら専門家も不要だ。お店の店員や専門家は何のためにいるかと言えば、物やサービスを与えたり、手助けをしたり、アドバイスをしたり、教えたりするためにいる。だからこそ、その対価としてお金をもらっている。ただ、そこにいるだけの人ではない。その道に通じていて、程度はいろいろだけれどそのことに詳しい。
 ネットではなくて、目の前の人に教えてもらう。質問をして答えてもらう。それもいいものだなって今日思った。見知らぬ土地へ行って迷ったり、目的地が分からない時に、一言、道を聞けばスマホのマップでいろいろやっているよりも手っ取り早いと思う。
 駅や電車、道などでスマホをみんながやっている。時間を惜しんでやっている。歩きながらやっている人も最近増えてきた。自分が今やっていなくて手放しているからこそ、そのことが気になるのだろう。
 ネットの番人。ネットのお守り。それに人生の多くの時間を費やしてよく分からないまま死んでいくのは嫌だ。
 とりあえずこのネットのない生活を1ヶ月やってみたい。1ヶ月後、わたしはどうなっているのだろう? ま、その時になれば分かる。1日目、終了。

 5日目

 5日目? って今まで何してたの? 2日目から4日目がなくて、飛んで飛んで急に5日目だけど? まぁ、いいじゃないですか。ブログなんていうものは書きたくなったら書くでいいのです。わたしは商業的な作家でも何でもないし、書きたくなったら書くくらいでいいと思っているので。で、その文章を誰かに読んでもらって楽しんでもらえればいい。文章というものは本来そういうものでしょ?
 なんて言い訳がましく始まりました5日目。5日目にして思うところを書きたいので、読んでくださいまし。
 相変わらずヨガをやるためにわたしは毎朝、街へ出掛けている。すると、ネット断ちをするようになってからいつもの風景が違って見えるようになってきた。駅で電車を待っている人たち。彼らは一様に、みんなスマホをやっている。小さな画面をそれはそれは食い入るように見つめている。その風景は何も変わっていない。一晩でそのように変わったわけでもなく、わたしがネットを断ち始める前から、みんなそのようにスマホをやってはいた(と思う)。
 その当たり前の景色、光景が今はすごく異様に見える。この人たち、大丈夫だろうかとさえ思う。うーん、あんまりここで思っていることを正直に言葉にしてしまうと絶対反感を買ってしまうだろうから、オブラートに包んで言うと、何かみんながタバコを吸っている感じと言ったらいいだろうか。何かね、ヤバイ感じがするのだ。自分がそれをやっていないからそれが気になるのだろうけれど。タバコを自分が吸っている時には周りで吸っている人がいても何も気にならないけれど、やめてしばらくすると、吸っている人がものすごく気になる。そういう感じ。
 みんながスマホを見ている様子がタバコを吸っているような感じに見えてしまうというのは、何かそのスマホを見ている彼らがあまり幸せそうではなくて、けだるそうだからだ。
 とまぁ、駅で感じたことはそれくらいにして、自分がネットをやらない生活を始めてみての変化を一言で言うと、「すごく調子が良くなって気持ちがいい」に要約される。そうか、ネットをやってるのがストレスになっていたんだなって分かったし、気付くことができた。消耗していたと言い換えることもできるかと思う。そう、消耗していた。心身ともにネットですり減らしていた。
 今のわたしはと言うと、ケータイを持っていないし、ネットもやっていない。こうして気が向いた時にPomeraという入力専用の端末のキーボードを叩いている以外はデジタルなものには一切ふれていない。テレビも見ていないし、ビデオも見ていないし、ラジオも聴かないし、とほぼほぼアナログな生活を送っている。
 でも、これがいいのよ。すごく。すごくいい。考えてみれば人類の長い歴史の中でネットが登場したのってここ2~30年でしょう? つまり、「人類の長い歴史-2~30年」という長い長い間はネットのない暮らしをしていたということだ。人間の体と心はその最近できたばかりの新しいこの人工的な機器と環境に適応できるようにはできていない。人間にとってネットというのは異物ではないかと思う。人工的で不自然な異物のようなものだから、体と心はストレスを感じて安らぐことができない。わたしがネットとポルノを見ると調子が悪くなるというのも、よくよく考えてみればもっともなことで、わたしの体と心はそれらが必要のない異物だと認識しているのではないかと思う。人工的な、つまり不自然なことをやると人は不調になる。調和している状態が乱れて調子が悪くなる。わたしの場合、本当にそれが顕著でネットをやっていると死にたくなってくるくらいなのだからやっぱり合わないのだろう。
 ネットをやらないようにしてからすごく意外なことも起こっているので紹介したい。あれだけ漬かっていた(と言っても過言ではない)アダルトコンテンツを見たいという気持ちがなくなってきたのだ。これはすごく自分でも予想外というか、意外で驚いているのだけれど必要としなくなってきたようなんだ。ネットを断っていることで、脳味噌が変わってきたとしか思えない。強烈な刺激がなくてもいられるようになったということなんじゃないかなって思っている。これは素人の勝手な憶測だけれど、ネットをやらないようにしていることで脳内のドーパミンがあまり増えなくてもいられるようになったのかもしれない。と言いつつも、禁欲生活を送っているわけではなくて適度に性欲の処理はしている。けれど、その際に使うオカズ(下品な表現ですみません)もすごくソフトになってきていて、女性のヌードでは刺激が強すぎるものだから、着衣姿や下着姿の写真でちょうどいい感じだ。
 ネットを離れてみて思うことは、あの世界って病んでるなってことで、良くない使い方をしていると悪いエネルギーをもらうよなっていうこと。もちろん、良心的ですごくためになっていい空気があふているサイトもあることにはあるのだろう。でも、わたしの、個人的な私見では、ネガティブな側面のほうが強いのではないかと思う。何かね、資本主義の論理と価値観が蔓延していて、支配さえしている感じさえして、すごい人や成功している人をひたすら賞賛してほめたたえていて、一方、そうではない人たち、そうなれない人たちの怨念、嫉妬、敵対心、差別心のような負のエネルギーが満ちている。強い人をほめたたえながら、その反対に弱い、言ってみれば社会でダメだとされているちゃんとできていないと見なされがちな人たちを槍玉に上げて叩く。
 その成功することが至上で唯一の価値であるかのようなネットの世界にドップリと漬かっていられて、そこで楽しくいられる人はいいのだけれど、わたしにはその場所が合っていない。そこにいるとわたしは自分が無価値で必要のないクズだとしか思えなくなってきて、死にたくなって仕方がなくなってくる。ブルーハーツの歌詞にもあるように、「いてもいなくても同じ」ではないかと思えてならなくなって本当に苦しくなってくる。
 その世界から距離を置いて、今、言ってみれば離脱しているわけだけれど、すごく楽で心地良くて幸せだなぁって思う。今までは、自分にとって必要ではないどうでもいい情報を自分の中へ取り込んではメンタルを悪化させていた。でも、今では思う。それいらないじゃん。必要ないじゃんって。自滅しなくてもいいじゃんってね。その情報いらないし、必要ないから。それが分かってきたこの数日間。
 でね、ネットをやめていると余計なお買い物をしなくなる。ポチッとながなくなるからね。で、今は古本屋の110円コーナーの本と100円ショップの栗とかを楽しんでる。お金を使うばかりがすべてじゃないって気が付いたのは大きい。
 でも、ネット断ちをしていると言いながらも、実はひそかに破っています。というのは、コンタクトレズがね、某メガネ店だと両眼使い捨て90日分で1万5000円なのが、ネットだと6000円だから(メガネ屋値段おかしいだろって感じです)。というわけで、母のスマホを一時的に借りて使わせてもらってポチッとなというわけでして。それだけですかね、ここ数日でネットをやったのは。
 いやはや、快適になってきました。表情が良くなったと自分でも思いますし、母もそう言います。バーイ。チャオ(?)。ではでは。

 12日目

 そうですか。そうなんですか。もう12日目なんですか。ネットをやめてもうそんなになるんですか。今、この12日目の「12」という数字を前にしてそんなことを思う。
 朝の電車、そして帰りの電車。そこで居合わせる人たちをさり気なく観察していると、何かみんな消耗していて疲れている。それがひどい人になると、ものすごくイライラしていて不満そうで怒っている感じさえしていて、ちょっと話しかけでもしたらこちらが何もしていないのに一触即発になってもおかしくない。
 彼らの共通点。彼らはスマホを持っている。まるで片時も離れたくない恋人か何かのように、あるいは自分自身と同化している体の一部であるかのように、本当に肌身離さず持っている感じ。
 このスマホは果たして人々を幸福にしたのだろうか? 幸せにすることができているのだろうか? どうもわたしにはそうは思えなくて、ネガティブな側面の方が濃厚ではないかと思っているということはこのネット断ち日記にも以前書いたかと思う(ってちょっと怪しい? 適当だけど許して)。
 たしかに便利になって飛躍的にほしいモノや情報などはすぐに手に入るようにはなった。ネットで注文すれば次の日には届くし、ほしいものをいろいろと店を回って探し歩く必要もなくなった。でも、それって本当にいいことなのかな、ともわたしはこのネットをやらない生活をするようになってから思うようになった。何でも手に入りすぎてしまうことってどうなんだろう? 便利すぎることっていいことなのかなって。もちろん、わたしはこのネット断ちの期間に、その期間でありながらも母のスマホを少しばかり借りて(20分くらい)コンタクトレンズを注文しているわけだからこのネットという文明の利器を真っ向から完全に否定する資格はないのかもしれない。ネット断ちと言いながら若干の例外はあったのだから、完全にはできていない。
 ではあるものの、このネットを断った生活を始めてみて、その豊かさに日々ふれている。そして、時折、喜びを感じては、あたたかい気持ちになったりもする。
 たとえば、まず電話。わたしはこのネット断ちをする前に、ケータイ(ガラケー)を解約している。だから、母に外出先から電話をしたい時には、必然的に公衆電話からかけることになる。これがね、また面白いんだ。今、公衆電話というと駅とか大きな公園とか、公共の施設の、それもまた限られた場所にしかない。明らかにコンビニの方が数が多い! 街からはほぼ公衆電話がなくなっていて、電話をするためにその公衆電話がある駅などへ行くという不便さを味わわなければならない。でも、この不便さがかえって楽しいから物事というのは分からないなぁって思う。「お前、おかしいだろ」と多くの人は思うだろう。あるいは「かわいそう」とわたしのことを見て何やら同情してしまう人もいるかもしれない。
 もちろん、最初は不便だなぁと少しは思った。けれど、そういったことよりも外出していて誰からも連絡が来なくて、それを気にする必要が全くないということがこれほどすがすがしいことだとは思わなかった。不便で、いつでも今すぐに電話はできないけれど、それを補って、いや補うどころかそれを感じさせなくて、上回ってしまうほどの解放感と軽やかさを感じている。ケータイを解約したら、自分の頭の中が急にスーっとし始めたから、あぁ、今まで電話がかかってくるかもしれない、ショートメッセージが来ているかもしれないということで自分のメモリーを消費していたんだなと分かった。全く意識さえしていなかったけれど、頭のどこかでは気にしていたということなのだろう。パソコンやスマホで言うなら、常駐ソフトとか常駐アプリが一つなくなって機器の動作が軽くなった感じと言ったらいいだろうか。今まで無駄にメモリーを食っていて重くなっていたということだと思う。
 さらには、新しい場所へ行って公衆電話を見つけた時の嬉しさと言ったら格別そのもの。「ここにもあった!」とまるで宝探しをしていて宝を見つけた時のような喜びがある。「お前、アホだろ」と心ない人は言うかもしれない。でも、こういうささやかなことを喜べるのはすごく幸せなことだと思うのだけれど、どうなのだろう?
 で、「最近、わたしスマホ始めました」ではなく「最近、わたし公衆電話始めました」なわたしがついこの前に買ったもの。テレフォンカード!! あまりにも身の回りで見かけなくて、もはや売っていないのだろうと思ったから、NTT(何とタウンページで調べたら公衆電話についての問い合わせを受け付けている専門の部署があった!)に電話をして問い合わせをしてみたら、販売は終了していなくて、一部のコンビニと金券ショップで手に入りますとの回答。そうなれば、コンビニにはなさそうな感じがしたから(分からないけれど)と金券ショップへGO!! 50度数のテレフォンカードを90円お得な410円で買いました。何だろう、この高揚感。人と違うことをしているというのが嬉しいのか何なのか、原因はよく分からないけれど、とても楽しくワクワクするこの感じ。「ってかさぁ、そんなことしなくてもケータイ契約すればいいだけじゃん」。それを言ってしまったらおしまいだ。うーん、たとえるなら苦労した分だけそれを手に入れた喜びは大きいということなのだろうと思う。野菜だったら、スーパーで買えば数百円なのに、どうして家庭菜園で毎日めんどくさい水やりをひたすらして育てて収穫するまでこぎ着けようとするのか。コスパ、タイパ悪いだろと言ってしまえばそれまでだ。でも、その公衆電話、テレフォンカードには過程のようなものがある。面倒で努力が必要なことは手間がかかる。電話をするためには公衆電話まで行かなければならないし、テレフォンカードだってなかなか売っているところがないから探して買ってこなければならない。この不便さ。不便ではある。が、この不便なことは悪であるどころか、それには手に入れたり達成できた時に喜びがともなってくる。簡単に手に入れたものって全然嬉しくないでしょ? 頑張って頑張って手に入れたものってすごく嬉しいでしょ? つまりは、そういうことなのだと思う。
 と、少々脱線してますか? してたら、すみません。ご容赦を。
 話を元に戻すと、ネットをやめてからすごく元気になった。ネットをやめたことによって消耗しなくなったから、活力と元気がある。そうなると自然と余裕が生まれてくる。余裕が生まれてくると、自分にはもちろん人に対しても周りを見ることができるようになってきて、さり気ない気配りができるようになってくる。すると、その穏やかな感じは相手にも伝わって、それがまた自分へとフィードバックとして返ってくる。その多くは好意的な反応や態度そのものだから、こちらもまた嬉しくなる。そうなると、ますます周りの人たちのことを気に掛けるようになって……、と好循環していく。
 特にその中でも女性たちの反応がすごく変わったような気がする。女の人ってすごく繊細で、男よりも身を守るために危険を察知する能力が高くて鋭いから、こっちがクサクサ、イライラしていると近寄ってこないし、遠巻きに距離を置いて避ける。本能的にこの人は安全、この人は危険と男性のことを識別する。最近、わたしがネットをやめてからというもの、何か女性たちからすごく好意的な視線を感じる。何も微笑んだりしているわけではなくて普通にしているだけなのに、それでも何か今までとは反応が違う。女性である母に最近のわたしについてそのことを聞いてみたら「ネットをやめてから雰囲気が変わった」と言う。おだやかで優しい感じの目になってきたとのことで、目がきれいになってきたらしい。イキイキしていて疲れたような感じではない、とも言っていた。
 今日も、歩道を歩いていた時に、前方から自転車に乗った女性がこちらへ走ってきたから、さり気なくわたしは左へ寄って自転車の彼女に道を譲った。そうしたら、すごく嬉しそうな顔で頭をわざわざ下げて(深めの会釈)通り過ぎていった。以前のわたしだったらこうして道を譲るどころか、「ここは歩道なんだから自転車で走るなよ。車道の脇を走れよ」などとイラついて道を自分が譲ってよけるなんていうことはしなかっただろう。「はぁ?」という感じだったと思う。でも、ネットをやめているわたしには道をそこで譲るだけの余裕があった(ということなのだろう)。
 人に優しくするためには余裕がなければならない。と言うよりは、余裕がないのに優しくすることなんてできない。自分がいっぱいいっぱいでもう苦しくて苦しくて生きていたくないとか、怒りに心が支配されていてこれまたいっぱいいっぱいの時に、それでも人に優しくするなんて無理。余裕、つまり余力あってこそ人に優しくすることができる。自分がカツカツでもう限界、という状況では人に対しても批判的で攻撃的な態度を取りがちで、「俺がこれだけやっているんだから、お前もこれくらいやれよ」と言いかねない。そうなってくると、特に本能的に危険な男を避けようとする女性たちはサーっといなくなっていって、距離を置いて安全を確保しようとする。そうなってくると、それでもその男性に優しくするだけのメリット(お金をたくさん持っているとか権力や決定権などを持っているなど)がない限り、その男は見向きもされないのは明らかなこと。
 ということはだ。ネット断ちというのは最強のモテメソッド(モテるための方法)なのではないか。なんて書いてしまったら何かいやらしいかもしれないけれど、「いい男」というのが、美輪明宏さんも言うように「やさしい男」なのだとしたら、それに近付く最も手っ取り早い方法がネット断ちではないかとわたしは体験的、直感的に思うのだ。
 収入がたくさんあって、社会的地位も高いけれど嫌味なことばかり言って攻撃的で暴力的な男とそれとは反対にあまりお金は持っていないものの、心が穏やかで優しくて、いつも気遣って自分のことを大切にしてくれる男とどちらがいいか、と言ったら明らかに後者ではないかと思う。お金を持っていることしか魅力がない男だったら、うまくいかなくなって財産を失ったら明らかに捨てられるし、最悪の場合、その財産をすべて横取りするために女の人が計略にはめたり、殺したりするかもしれない。
 三輪さんが言うには、男を選ぶ時には「この人は年収○○円だから」などという基準で選んでもうまくいかないから、それよりもやさしい人を選んだ方がいいとのことで、見合いにしてもマッチングアプリにしても、高収入の人や社会的地位が高い人を多くの人が選びがちだけれども、考えてみれば、そのお金や地位と一緒に暮らすわけではない。それらを持っている男と暮らすのだから、その男自体に問題があったらうまくいかないのは当然のことだ。
 ネットをやっていると本当、どうでもいい情報ばかりが入ってくる。そのたびに心がグラグラ揺れて、頭の中も消耗してきて疲れてくる。そのネットの情報、必要ですか? 要らない情報に翻弄されてかき回されてないですか? そう自分自身に問いかけてみることがまず必要ではないかと思う。そして、もし今ネットをやっていることによって調子が悪くなっていると思うのだったらやめてみる。調子が悪い時にまずすべきことは、何かをやって足すことではなくて、その原因と思われることを取り除く、つまりは引くこと。試しにそれをやめてみて自分の反応を観察する。調子が良くなればそのやめてみたことが原因だった可能性が高いし、変わらないなら別のことが原因だろう。そうして、自分自身にとっての不調の原因として思い当たることを一つずつ、消去法で消していきながらその原因を探していく。
 この1億総スマホ時代と言ってもいい令和の日本でネット断ちをすることは難行、いや苦行そのものなのかもしれない。しかもわたしの場合、1週間ではなくて、それをまず1ヶ月やってみようとしているわけだから、多くの人から「おかしいんじゃない?」と言われかねない。まさに変わった人。変人。80年代に一世を風靡した「奇面組」という漫画を彷彿とさせるような個性的で変なことをやっているわたし。しかし、たとえ時代や世の中の流れと逆行していたとしても、わたしのこの直感は間違っていないと思う。むしろ、時代や世の中のほうが間違った方向へと進んでいるように思えてならない(と言いつつ、このように自分の文章をブログというネット空間で発信しているから矛盾しているわけだけれど)。
 端的に次のように問いたい。いや、こう問えば十分だ。
「ネットができて便利になりましたか?」
「はい」
 ここまではいい。けれども、決定的なのはここからだ。
「ネットができてみんなが幸せになりましたか?」
「ネットをやっている時、みんな幸せそうですか? 楽しそうですか? 満ち足りていますか?」
「みんな幸せ? ネットやってハッピーになってる? スマホやっててハッピー?」
「もちろん!! 幸せだよ!!」と即答できるなら、もうわたしは何も言う必要がないし、それで終わる話だ。でも、現実は違うのではないかと思う。駅や街でスマホをやっている多くの人たちの表情はどこか暗くて、その小さな画面を体をかがめながら一心に見つめている姿はあまり幸せそうな感じではない。精神疾患や不登校、ひきこもりの人たちは年々増えているようだし、1人1台とタブレット端末を導入した小中学校の生徒たちの学力がそうすることによって劇的に向上したという話も聞かない。わたしが美術館へ行った時に地元の中学生たちが来ていたけれど(おそらく美術の授業の1コマとしてだろう)、彼らは目の前に展示されている美術品の写真をそのタブレット端末で次々に撮っていくだけで、まったくと言っていいほど、その作品を立ち止まって見ようとはしない。向き合って対話しないで写真を撮るだけで満足している(「何のために美術館へ来てるの?」と言いたくなる)。
 もしかしたら、これからの時代の本当のインテリや優れているスマートな人たちはあえてネットやスマホ全盛の流れとは逆行して、電子機器を手放してネットを断ち自然の中で暮らすのではないか。わたしにはそんな風に思えてならない。田舎暮らしをして、おいしい空気を吸い、自ら無農薬で野菜を作り、家畜も育て、薪も割って、自給自足に近い生活をする。森や山や川や海。アウトドアを積極的にやり、心を解き放ち、感性や感覚を研ぎ澄ませる。そんなライフスタイル。
 人類の長い歴史において、産業革命以降、急速に発展してきたこの人工的で機械的な文明はついこの前できたばかりのものでしかなくて、人間にとってはまさに不自然なもの。だからこそ、その不自然きわまりないものに漬かって依存すれば調子が悪くなる。わたしの場合、ヨガを通じて自分自身と向き合った結果、だんだんと不調の原因がこれではないかということが分かってきた。そして、決定的な原因だと思ったネットをやめてみて、今に至るという次第。
 実は今、世界的に大規模な実験が行われている。それも人体実験が。ネット、ならびにスマホなどの電子機器を長期間使った場合に人はどのようになるのかという実験が行われているのだ。その結果がどうなるのか。それはやってみないと分からない。なぜなら、今まで人類の歴史においてまだそれは検証されていないからだ。30年、40年、50年、それ以上と長期にわたって電子機器を使ったら人はどうなるのかという実験が悲惨な結果にならないことを祈るしかないけれど、もしかしたら将来、日本はスマホ認知症の老人だらけになっているかもしれない。その時にはこの文明の利器を発明した人たちはいわば勝ち逃げのごとくもう死んでいるから、「何であの時にこんなものを作ってみんなにやらせたんだ!! みんなの時間とお金と健康を返せ!!」と言っても後の祭りだ。だからこそ、よく分からないスマホをやらないほうが賢明ではないかと思うのだけれどどうだろうか。
 あと、ネットをやっていないわたしだけれど、スクリーンで見ているのは、今こうして文章を書く時に使っている入力専用端末のPomeraだけで、それ以外のテレビの画面も見ないようにしている。だから、アダルトなDVDは要らないということで全部処分した。ただ、本は少々アダルティーなものを持っている。その中でも90年代終わり(ほぼ2000年頃)に活躍した加藤あいさんの写真集が秀逸ですごくいい(アダルティーじゃないソフトな写真集だよ)。当時のベトナムで撮影したという写真集に載っている加藤さんのベトナムの民族衣装姿は似合いすぎていて最高に美しかった。もちろん、わたしは長年、広末涼子さんのファンだけれど、その当時、加藤さんのことも気になっていた。で、25年越しの再会(?)というわけで、オフライン生活もいろいろと出合いがあって面白いのです。この生活を始めたからこそ、加藤あいさんの写真集を古本屋で買うことになりまして、と物事ってつながっていくんだなってね(ちなみに加藤あいの写真集を中古で3冊買って1冊あたり2~300円だった)。アダルトなDVDを見なくなって街や身近にいる女性たちがすごく魅力的に感じられるようになったことも付け加えておきたい。写真くらいが刺激の強さとしてはちょうどいいのだと思う。
 文章が長くなってしまった。結構疲れた。でも、それも何だか心地いいような。書きたいから書いている。それでいい。少々手間暇はかかるけれど、楽しいネット断ちのオフライン生活。もうそろそろで折り返し地点。でも、全然苦しくない。むしろ心地いいから不思議なくらいだ。ネットをやっていた頃よりも今のほうが自然な暮らしなのだろう。公衆電話でテレカを使って電話するとか面白すぎる!!(みんなの視線を独り占め?)時代と逆行している生活の12日目。良い一日でした。寝ます。おやすみなさいませ。

 26日目

 26日目ってもう2週間近く経ってるだろ。何してたんだよ。ちゃんと仕事しろよ。そういったクレームをされようものなら、「これは仕事じゃないですから」と真っ向から反論してキーキー相手に噛みつく、なんてことをしても仕方がない。
 でも、まぁこのネットを使わない生活を始めてみて感じたことを一言で言うなら、ものすごい歩くようになりました。めっちゃ歩いてる、というのが何よりも大きな変化。そして、その結果なのか痩せたような気がする。
 今回の経験から分かったこととしてネットを使わないとどうして体重が減るのかと言えば、
①自分のお家に商品を配達してもらうのではなくてお店に行かなければ買えないから歩くことになるため。
②ネットをやらないことによってデジタル機器から今まで受けていたストレス(スクリーンの光から受けるもの)がなくなり、無駄な食欲がなくなるため。
③ネットをやるとその時間は興奮しているような状態になるから、自分の体の感覚に対して鈍感になって分からなくなってしまう。それがネットを断つことによって研ぎ澄まされて分かるようになるため。
④自分にとって本来、必要のないいろいろな情報がネット経由で入ってこないことによって、ネット上の人たちを見る機会がなくなってストレスが激減するため。
 といった理由だと思う。
 歩けば痩せる。そして、食べ過ぎないようにも気をつければその減っていくペースはどんどん上がっていく。ごくごく当たり前のこと。でも、この食べ過ぎないで体をしっかり動かすという鉄則はいつの時代にもあり、通用してきたものの、当たり前すぎて見過ごされている。ともかく、わたしの場合には、だいたい毎日のように1時間くらいかそれ以上は歩いている。そして、それにさらに1時間半くらいのヨガの練習が加わる。となれば、痩せていく。
 次に、やっぱり思うのだけれど、スクリーンの光は光害なのだろう。それはやった人たちのやる気を奪い、情緒を不安定にしてメンタルを悪化させる。また、頭を悪くもする。

 28日目

「前回、何か中途半端なところで終わっているようですけど、どうかしたんですか?」
 実は前回、「……また、頭を悪くもする。」まで書いたところで猛烈な眠気に襲われて寝てしまったため、途中で唐突に終わった形となってしまいました。すみません。お許しを(「自由すぎだろ」と自分でも思う)。というわけで、前回の続きも書いて、今回も書いてという形にしようかと。
 (前回からの続きはココから)光害についてだけれど、電子機器のスクリーンの光を浴びると途端に頭がぼーっとしてきて何も考えられなくなる。まさに、思考停止。この感覚は昔飲んでいたきつい抗精神病薬(統合失調症の治療に使うお薬で脳内の神経物質のドーパミンの量を減らす)にどこか似ている感じがしていて、強制的に考えることをできないようにさせる。
 それがこの1ヶ月あまりのネット断ち生活でより強烈に感じられるようになった。
「ネット断ち生活」と言いながらも実際には完全なネット断ちをできていない。隠れてやっていたということではなくて、一部例外的にネットを数回使うことはあった(母からスマホで注文したいものがあると頼まれた時やネットでしか買えないものがあった時)という意味で完全ではない、ということ。けれども、今までだったら1ヶ月に100時間か、下手したら150時間くらいはやっていたネット時間を数十分にまで減らすことはできたのだから、激減したのはたしかだ。
 その強烈に感じる時というのが、まず、お店でのお買い物で支払いをする時に見るスクリーンの画面。機械を使って支払うやつと言えば分かるだろうか。この画面を極力見ないようにしているものの、やっぱり少しでもこのスクリーンの光を見ると、自分の調子が下がるのを感じる。そして、次に、例外的に母のスマホを使ってネットをやった時にもテンションが短時間でありながらも、ガクっと下がるのが分かる。落ちる感じと言ったらいいだろうか。この1ヶ月あまりで感覚が鋭くなっていて、ネットをやらないのが通常の普通の状態となっているので、やって自分のエネルギーやメンタルの状態が下がるのがよく分かる。で、だからこそ思う。これを毎日5時間、6時間もやっていたら絶対調子が悪くなるなって。数分やっただけでここまで気持ちが下がっているのだから、ネットをやっていた頃に調子が今一つだったのはもっともなことだったなってつくづく思った。そりゃ、当たり前だよってね。自分の中のエネルギー、元気をスクリーンに吸い取られる感じといったらいいだろうか。これと同じことを森の中で長い間、仕事をしていた人が本の中で言っていたのだけれど、まさに「自分の元気を吸い取られる」という言葉がふさわしいと思う。
 さらに他にもネットをやめてからこんないいこともあった。それは習っているヨガが深まってきたことだ。
 ヨガをやっていると、ヨガとネットというのは対極にあるものだなって思う。欲望や執着を手放していこうとするヨガとそれらを貪欲に追求していき快楽を得ようとするまさにザ・資本主義なネット。ネットに限らず、テレビ、ラジオなどもヨガとはすこぶる相性が悪い。ネット動画を見ながら、テレビを見ながら、ラジオを聞きながらヨガをするなんていう話は聞いたことがないし(それでは絶対に集中できない)、そんなことをしようものなら穏やかで優しいわたしのヨガの師匠も黙ってはいないだろう。
 まぁ、師匠にネットを1ヶ月くらいやめてみたいという話をわたしがした時に「極端なことはしないで、ほどほどがいいんじゃないの」と少しばかり苦言を呈されたものの、わたしの感覚としてはヨガとネットを両立させることはとても難しいことのように思えてならない。欲望や執着というお酒のようなものを手放していこうとしながらも完全にはやめずにほどほどに飲めるようになろうとする。言うまでもなく、ドリフターズのカトちゃんの「ちょっとだけよ~」ではないけれども、ちょっとだけというのが一番難易度が高いとわたしは思う。やめたいものがある時に一口だけにしようというのはまずムリ。それだったら最初から食べないようにしたり、やらない方が断然ラクだ。
 ヨガのポーズだけではなくて、瞑想もラジオやテレビの音がある状態ではまずできないことからも、高速で流れるテレビコマーシャルとは相性が最悪と言っていいほど悪い。そもそも欲望全開のギラギラモードではヨガと瞑想はできない。スーっと透明に無になっていこうとしながら「あ~、ハンバーガー食いてぇ~」「女の子と遊びてぇ~」と同時にギラギラしていることはできない。水と油のようなものだと言ってもいいと思う。相容れないふたつのもの。その方向性。
 ネットをやめてから、ヨガをやっている時に初めてフローしているような、何とも言えないような、今、ここにある感じを味わうことができた。もう何もいらなくて、ただここにある。それだけで十分すぎて過不足が一切なくて、満たされていて、今いる空間と一つになっていてとても心地がいい状態。ただ感じている。そんな感覚。初めての体験だった。
 他にも回復が早くなってきたと自分でも思う。前だったら何かダメージを受けるといつもの状態に戻るのに時間がかかっていたのがかなり短い時間で戻れるようになってきた。毎日生きていればいろいろなことがある。最近、具体的な内容は伏せるけれど結構きつい出来事があった。昔だったら自殺しているか、入院してしまってもおかしくないレベルのことがあった。そのきついことがあった日はさすがに参っていたけれど、次の日には回復することができた。おそらく、ネットをやらないことによって脳が変わってきたのだろうと思う。
 とダラダラと(?)書いてきました28日目。ネット断ち生活の最中にネットで注文した(これは例外なんです)広末涼子の18歳の記念テレホンカードはわたしの宝物(1000円也!)。いいなぁ、広末さん。特に18歳の頃って最高でしょ。この生活を始めなければ公衆電話を使うこともなくて、このテレカとも出逢えなかった。いいねぇ、この生活。自分に合っています。運命を感じていますよ。この生活にね。ではでは。

 33日目

 今日でネット断ちを始めてからちょうど1ヶ月になりました、と書きたいことは書きたい。でも、実は、というか明らかに1ヶ月をオーバーしているわけでして、今日で33日目なのです。このネット断ち日記、ホント、テキトーだなって思う。「1ヶ月チャレンジだったらちゃんと毎日、その記録をつけろよ」と多くの人が思うし、言いたくなるところだろう。ま、いいにしてください。あなたに迷惑は何もかけていないので、いませんので。軽薄であることは重々承知しておりますが、前向きにご検討くださいませ(?)。
 1ヶ月を、多少の例外はあったものの(だから完全なネット断ちとは言えない)クリアーしたということで、この1ヶ月、ネットをやらない生活をしてみて、今思うところや感じることなどをざっくばらんに思うままに書きたいと思う。あまり長くなりすぎないようにするので、今日の分もお付き合いいただけたらと思う。まぁ、読んでくだされ。
 全体的な感想。つまりは、やってみて良かったかどうかと言えば、声を大にして叫ぶのは恥ずかしいから遠慮したいものの、耳元でささやくように「とっても良かったですよ」と言いたい。とにかく、やってみて良かった。この一言に尽きる。何か、人生が変わったような感じさえしているくらい大きく変わったと自分では思っているし、一緒に暮らしている母もそう言っているし、証言してくれるだろうと思う。
 わたしはこのブログで一時期、「ぐだぐだ不調日記」という本当にどうでもいいような、調子が悪くなってさぁ、みたいな記事を書いていたことがあった。そして、その不調日記をひたすら書いていたら、あるパターンに気が付いた。どうやらわたしが不調になる時というのは、いつも決まっていて、ネットをやった時とポルノを見た時と相場が決まっていたのだ。わたしの不調の二大原因。だから、逆に言えば、それさえ避けるなり、控えるなりすれば、そこそこ元気に過ごせる。
 けれども、それを徹底することができずにいた。それらが原因だと目星がついても、現実的にはポルノはともかくとして、ネットを断つのはなかなかできることではない。今や、生活が下手をしたらネット中心に回っていると言っても過言ではないくらい、何をやるにしてもひたすらネット、ネット、ネットの日本、および世界。その大きな流れの中でネットをやらないという選択をするのは相当な変人であることは間違いないことで、なかなか勇気がいることだった。まわりから浮くのは当然だし、かなり個性的で奇抜だろう。「ネットをやらない生活を始めました」とわたしが言えば、「それ、大丈夫なの? 困らない?」とか「この社会で生きていく気があるの?」「頭おかしいんじゃない? あなた、変だよ」と言われる可能性があるくらい変わったことだと思う。
 でも、やってみた。本当に困った時には母のスマホを多少(ちょっとだけよ。本当にちょっとだけ)使わせてもらったけれど、以前普通に使っていた頃と比べれば、ネットの使用時間は激減した(使用時間が以前の1%以下にはなっている)

 そのネット断ちによる変化を挙げると、
 ①メンタルの状態が良くなった。
 ②ネット疲れによる消耗感、疲労感がゼロになってものすごく楽になった。
 ③目がきれいになった(と思う)。
 ④はじめてやる物事に対して前よりも物怖じしなくなった。
 ⑤頭の冴えとキレが上がった。
 ⑥行動が積極的になっていろいろとチャレンジできるようになった。
 ⑦物事に取り組む時に集中できるようになった。
 ⑧体調不良が激減した。
 ⑨精力が向上した(アダルト動画やアダルトDVDなどのスクリーンを見ることもやめたのでこうなったのだと思う。アダルトコンテンツは雑誌や本などの写真だけにした)
 ⑩嫌な出来事や好ましくないことが起こっても以前よりも取り乱さずに耐えることができるようになった。また、回復して持ち直すために必要な時間もかなり短くなった。
 ⑪ネットショッピングができなくなったため、出費が減った。
 ⑫ネットをやることによって感じていたストレスや欲求不満がなくなったのでやせた(食欲が暴走することがほとんどなくなった)。
 ⑬やせて目がきれいになって、イライラしている感じがなくなったせいか、前よりも見た目が良くなった(と思う。以前よりも女性からの視線を感じるようになった。おそらくいい感じになって男として魅力的になったのだろう)
 ⑭必要ない情報が入ってこなくなって生活しやすくなった。

 さらに、わたしの場合、ケータイ電話のガラケーも解約しているから、より効果的だったと思う。電話を携帯しないことはすごく心地いいことで、解約した日の帰り道はすごく肩が軽くなった。
 そういうわけで、ネットをやらずに、母へ連絡をする時にはいつも公衆電話でテレホンカードという次第で、今日、また街の金券ショップで50度数のテレホンカードを買った(定価よりも若干安い。数十円だけれど)。
 と、その買ったテレホンカードがすごかった。プレミアのお宝物だったわけではない。けれども、異次元のすごさだった。その金券ショップではテレホンカードを買う時には、自分でそのカードの絵柄を選ぶことができない。ショップの店員が渡してくれるものを受け取るしかなくて、どんな絵柄であっても交換は受け付けないとのこと。
 で、その今日のテレホンカードの絵柄なのだけれど、写真だった。その写真、女の子が写っている。とくれば、タレントと思うだろう。昔、有名だったアイドルや女優なんかのやつだったんでしょと普通は思うだろう。が、そのわたしが渡されたテレホンカードの写真の女の子は普通の女の子だ。そして、その写真の右下には昔のカメラで撮ったものなのだろう。「95.6.29」とオレンジ色の文字で小さく撮影した日時がある。5歳か6歳くらいの女の子がきれいなあじさいの花と一緒に写っている。何よりもこの写真は良く撮れていて、撮った人がこの女の子を本当に大切に思っていて、かわいいと思っている様子がひしひしと伝わってくる。わざわざ、今から30年前の当時に記念のテレホンカードをこうして作ったくらいなのだから、とても大切な写真なのだろう。この女の子は誰なのだろう? 何ていう名前の子で、どこで撮った写真なのだろう? この女の子は今も生きていれば35歳とか36歳くらいになるのだけれど、まだ元気にしているのだろうか? 元気にしていてくれたらいいのだけれど。また、この写真はどういう経由でこの金券ショップまで流れてきたのだろう? 誰かもらった人が売ったのか? それとも家族、本人が不要になったから売ったのだろうか? それとも差し押さえなどによって流れてきた訳ありのものなのだろうか? 考えてもそういったことは分かるわけがないし、この女の子が写っているテレホンカードだけを手掛かりにして本人を特定することは素人のわたしには難しい。
 このテレホンカードをショップの店員が無愛想な表情と声で、明らかにわたしから「交換しろ」と言われることは分かり切った上で「交換はできませんので」と言ってこちらにそれを寄越した時、わたしは「これはないだろ。さすがにこれは」と思った。どこの誰だか分からない普通の女の子の写真のテレホンカードとか訳が分からないし、こういうのをもらっても困る。でも、何か今はこのあじさいと一緒に写っている女の子がすごく愛しく思える。あじさいも本当にきれいで、その女の子を引き立てている。これも何かの縁なのだろう。そのカードを使っているところを誰かが見たら「それは娘さんの写真ですか?」と聞きたくなるかもしれない。これはかなり面白いですよね? 本当面白いというか、訳が分からないのを突き抜けているというか、違う意味でスゴすぎますよね? 何が起こるか分からないから人生は面白い、って誰かが言ったけれど、ネットではこんなテレホンカードは買えないだろうし、絶対出合えないだろうなって思う。ガラケーをやめていなかったらこのテレホンカードを買うこともなかったし、出合うこともなかった。不思議なものです。
 そして、わたしからの重大発表、ではなくてどうでもいい発表があります!! どうでもいい発表なので寝ころびながらお煎餅でもかじりつつ聞いてください。

 わたくし、星大地はこれからもネット断ち生活を続けていきます(完全にはできないのでどうしてもの時には破るけどね)。パチパチパチパチ~。

「うわー、その話、本当クソどうでもいいから話を聞く前に時間を戻せよ」
「それ、私と何か関係ある?」
「ひっこめ~」
「つまんねーぞ」
「どうでもいいぞ~」

 おぉ、おぉ、おぉ、おぉ。暖かい声援ありがとうございます(「状況を把握しろよ」と言われても空気が読めないものでして)。
 ともかく、これからは1ヶ月に1回か、2ヶ月に1回くらいの間隔で物置からノートパソコンを取り出して、その間に書きためた記事をアップして、で、また物置へしまって、みたいな感じでやっていこうかと思っているのでよろしくお願いします。
 と書けば、「ネットをやるのか、やらないのか、どっちつかずで中途半端だろ」とお叱りを受けることは当然のこと。でも、これがわたしにとっての心地いい生活なので大目にみていただけたら嬉しいです。
 ネット断ち生活33日目。とりあえず、今回はこのあたりで。もし、ここまで(約2万文字。本当長い)飛ばさず読んでくださった危篤ではなく、奇特な方がおられましたらジャイアンではないですけど、心の友になれるかもしれないですね。あ、でもわたしはあんまり他の人に基本的に興味関心がないので、そこのところはご理解のほどを。ってそういうところも中途半端。他者からの承認や賞賛を求めるのか、求めないのか。一体、どちらなのか。
 いや、どうでもいいのかもしれない。すべては幻なのですから。って言ってることがヤバイ人ですね。わたしのこの意見に同意してくれたのは、今のところ、ある一人のお坊さんだけでした。
 ネットをやめるとヤバイ人になります。だから、くれぐれもやめないように。って、思ってもいない、事実とも違うことを口走ってしまいました。大事なのは、とりあえずやってみること。そして、やってみてから、やりながらまた考えればいい。同じように、まず、やめてみる。やめてみた方がいいと思うのならやめてみる。やめながら、やめてみてまたどうするか考える。完全にやめるのがこわいなら、やめてからまた戻ってこれるようにしておく(ネット環境を完全に撤去したり、ケータイを解約したりしないで1ヶ月くらい使うのをやめるために物置やクローゼットなどへしまうなどする)。
 ネットをやめてみたらすごく面白かったし、良かった。どうして20年もやめないで続けてきたのだろう。1ヶ月やめてみて、そのことを強く思う。スマホの小さな画面から顔を上げて、空を見ている人はどれだけいるのだろう? みんな、空を見ていない。そんなこととは関係なく、今日も雲はゆっくりと流れている。それを見ていると、何かどうでも良くなってくる。偉くなるとか、賢くなるとか、強くなるとか。それでいいのかもしれない。そして、これはおそらく幻なんだろうな。そんなことをわたしは思う。これでいいような気がする。どうなんだろ。

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